あの人に会いたい ヴェルナー・フォン・ブラウン SPYSEE
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Werner Von Braun 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MVPjuiABp_E
ヴェルナー・フォン・ブラウン フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヴェルナー・フォン・ブラウンは、ドイツ出身の、第二次大戦後にアメリカ合衆国に移住した、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者の1人であり、旧ソ連のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。
【NASA時代】
1958年7月29日にはアメリカ航空宇宙局(NASA)が法律上成立した。翌日、50番目のレッドストーンロケットが核実験ハードタック作戦の一部として南太平洋のジョンストン島から成功裏に打ち上げられた。
2年後、NASAはアラバマ州ハンツヴィルにマーシャル宇宙飛行センターを新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをレッドストーン兵器廠からNASAに移籍させた。フォン・ブラウンは1960年から1970年まで同センターの初代所長を勤めた。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
フォン・ブラウン (1912-1977) 65歳で死亡
第2次大戦中、はじめて長距離ミサイルV2号を開発したドイツのロケット工学者ウェルナー・フォン・ブラウンは、ドイツ敗北時、ソ連軍の手におちることをきらって、すすんでアメリカ軍の捕虜になった。彼はまだ33歳であった。
以後アメリカのアポロ計画の指導者となり、1969年7月、人類がはじめて月世界に着陸したアポロ11号を生み出した。
しかし、その後アメリカはしばらく宇宙計画への情熱を失い、ブラウンは航空産業の1民間会社フェアチャイルド社の副社長という地位で余生を過ごすことを余儀なくされた。
1973年初夏、彼はパイロットとしての定期検査で左腎臓に病変を発見され、9月に患部の摘出手術を受けた。医師は明言しなかったが、それはガンであった。
手術後の経過は良好で、彼は前と同様に働いたが、2年後の1975年夏、排便時に出血があるのに気づき、診察の結果、大腸にガンが発生していることが判明した。ガンはやがて肝臓にも転移した。
ワシントン郊外アレキサンドリアの病院に見舞いに来た友人に彼は言った。
「子供のときの夢を、生きているうちに実現させることの出来た人間が世界に何人いるだろう。私はもし明日この世を去っても、最高の生き甲斐のあった人生だと満足できるよ」
死が迫って来るにつれて、彼はうわごとをもらすよになった。それは宇宙の星座のかなたを翔んでいる夢であった。目ざめているとき、彼は娘のアイリスに言った。
「宇宙への飛行は、生命の起源を探るためだ。宇宙は生命の故郷だ。生命の起源を知れば、ガンの治療も可能となる」
1977年6月16日、彼は「私はいま銀河系を脱出しようとしている。10万光年・・・・10億光年・・・・」とつぶやき、「ノバ(新星)」と言って、息をひきとった。
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おくやみ:ヴェルナー・フォン・ブラウン氏 訃報ドットコム
http://fu-hou.com/1751
月面のアポロ11号着陸船、40年ぶり撮影 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20090718-OYT1T00809.htm
フォン・ブラウンの言葉
「子供のときの夢を、生きているうちに実現させることの出来た人間が世界に何人いるだろう。私はもし明日この世を去っても、最高の生き甲斐のあった人生だと満足できるよ」は名言です。