じじぃの「人の死にざま_29_キュリー夫人」

あの人に会いたい マリ・キュリー SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC/2780/
Marie Curie 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0vTRrZU-LKQ&feature=related
Maria Sklodowska Curie.wmv 動画 Youku
https://www.youtube.com/watch?v=d0A3vecdUew
Qさま!!超豪華2本立て!学力女王頂上決戦&2015年トレンド王決定戦 2015年12月28日 テレビ朝日
【MC】さまぁ〜ず、優香 【女性解答者】八田亜矢子三浦奈保子天明麻衣子下平さやか坂東眞理子大島さと子村井美樹宮崎美子有賀さつき、その他
1本目は…2015年の総決算!最強インテリ女子30人が、ヤング美人妻・アダルト美人妻・独身美女の3ブロックにわかれ、真の「学力女王No.1」を決する!
▼問題は全て現役東大生・京大生が選んだスゴイ女性の偉人ランキングから出題!▼マザー・テレサ北条政子オードリー・ヘプバーンキュリー夫人…時代を築いた偉大な女性たちに関する問題が続々!▼今年最後のタイトルを手にして、最高の新年を迎えられるのは誰だ!?
下平さやか天明麻衣子三浦奈保子村井美樹宮崎美子が決勝進出。
決勝問題
キュリー夫人に関して○か×かで答えなさい
①×線を発見した          ×
②娘もノーベル賞を受賞した    ○
③唯一ノーベル賞を2度受賞した ×
キュリウムという元素がある   ○
宮崎美子が5位から逆転優勝。
http://www.tv-asahi.co.jp/qsama/contents/pop/151228sp/index.html
朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
キュリー夫人 (1867-1934) 67歳で死亡 【執筆者】宇佐波雄策 (一部抜粋しています)
カルチュラタンの屋根裏に住み、食事も睡眠も切り詰めて勉学に励む。2年後には物理学の学士試験に一番で合格した。
若い物理学者ピエール・キュリーと出会ったのはそのころだった。2つめの恋が始まった。
2人は結婚を決意する。新婦27歳、新郎36歳。当時としては遅い結婚だった。
物理化学学校で放射線の研究を始めた夫妻は、ガラス製造に使うウラン塩を採取した後の廃鉱石に、ウラン以上に放射線が強い未知の元素が2つ存在することを発見した。1つはラジウムと名付づけた。
学会を説得するためには、現物を示さなければならない。2人はラジウムの抽出に懸命になる。ボヘミアの鉱山から、廃鉱石を数トン単位で運び込んだ。
抽出作業が行われたのは、学校の中庭にあった解剖用の遺体安置室だった。今は取り壊されて残っていない。ルピネール副学長はいう。
「床はコンクリート、窓にはガラスがはまった建物ですが、木造建築でした。雨漏りがひどく、廃屋同然に捨て置かれていた。夏は温室なみ、冬は冷蔵庫でした」
ピエールは主に分析を、マリーは力仕事を担当した。直径1メートル近い大がまに、砕いた廃鉱石を入れて煮る。一度に20キロずつ処理した。
マリーは汗だくになりながら、どろどろの溶液を鉄の棒でかきまわした。加えた酸などの刺激臭がただよう。粉塵が部屋中に舞っていたが、換気扇もなかった。天気のいい日には、戸外に出て作業を続けた。
溶液を分別しては濃縮を繰り返す。重い容器を棚にしまい、取り出し、移動させる。夕方には口もきけぬぐらい疲れはてた。ぽっちゃりしたマリーがどんどんやせていくのはこのころからだ。しかし、ルビネール副学長はいう。
「女が科学研究をするなど、好奇の目で見られていた時代です。しかしこの実験室ではだれにも邪魔されず、夫と自由な研究ができた。彼女にとっては聖域だったのです」
夫妻は最初、新元素の量は廃鉱石の重量の100分の1程度だと予測していた。それが100万分の1以下の間違いだと気づいたとき、あまりの過酷な作業にピエールは「もうやめよう」とさじを投げかけた。
だがマリーは「私たちの正しさを証明するまでやめません」と答える。徹底的にものごとをやり通すタイプだった。
目に見えないラジウムは、ゆっくりと、しかし、着実に、夫妻の包囲網に追い込まれていく。
    ・
ピエールはノーベル賞から3年後の1906年、パリで馬車にひかれて死んだ。マリーは34年、骨髄性白血病で死んだ。67歳。長年の被曝が原因だった。
夫妻の遺体は95年、パリ郊外ソーにある墓地から、国家功労者をまつるパンテオンに移葬された。
フランス政府が調べたところ、2人の遺体から、人体にはないラジウム226が検出された。無害なレベルだが、骨1キロあたり8ナノキュリーの放射能が計測されている。
マリーが放射線の研究にそそいた情熱のあかしのように、今この瞬間にも、微量の放射線がパリの中心部から放たれている。

                            • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
キュリー夫人
1903年、36歳のとき、ラジウムの発見によって夫ピエール・キュリーとともにノーベル物理学賞を、1911年、44歳のとき、単独でラジウムの分離に成功し(夫は1906年、馬車にひかれるという事故で死んでいた)ノーベル化学賞を受けたマリー・キュリーは、死ぬ年のはじめごろから身体不調を訴えるようになった。疲労し易く、微熱に苦しんだ。
しかし、彼女は医者にかかることをきらった。ただの医者ぎらいではなく、マリー・キュリーを尊敬する医者は1人も金を受けとらず、それが彼女を当惑させるからだった。とはいえ、たとえ町医者が彼女を診察したとしても、その病名を当時診断出来る者はほとんどなかったであろう。
5月、彼女はついに病床についたが、高熱がつづくのに、レントゲン写真をとっても、器官のすべてに異常はなく、名医たちも首をかしげるばかりだった。
病名不明のまま、清澄なサンセルモス診療所に移されたとき、彼女は娘のエーヴと看護婦の腕の中に、気を失って倒れたくらいだった。ここで血液検査の結果、白血球も赤血球も異常に減少していることが、はじめて発見された。しかし治療の方法はなかった。マリー・キュリーは、彼女が多年手がけていたラジウム放射能のため白血病に冒されていたのである。
そして、7月3日午後、「・・・・各章のパラグラフは、みんな同じようにしなければいけませんね。・・・・」とか「これはラジウムで作ったのですか?それともメゾトリウムで作ったのですか?」とかうわごとをいい、注射に来た医者に、弱々しく、「いやです、かまわないで下さい」とさけんだあと、昏睡におちいった。
しかし彼女はなお16時間生きつづけ、山々を染めた薔薇色の朝の光が病室にさしこんで来た翌朝、やっと心臓が停止した。

                            • -

キュリー夫人 映画は娯楽だ!
http://plaza.rakuten.co.jp/mag7cup/diary/200907130000
キュリー夫人の言葉
「私たちの正しさを証明するまでやめません」は名言です。