じじぃの「人の死にざま_24_手塚・治虫」

手塚治虫 - あのひと検索 SPYSEE
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Tetsuwan Atom 003 (jap) 動画 YouTube
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三つ目がとおる - OP【?のブーメラン】 動画 YouTube
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手塚治虫ワールド

世界に誇る50人の日本人 「成功の遺伝史」 2013年12月30日 日本テレビ
【MC】たけし&くりぃむ上田 【ゲスト】伊集院光劇団ひとり鈴木奈々武田鉄矢茂木健一郎山岸舞彩荒川静香HIDEBOH星野仙一、Mr.マリック、米村でんじろう、その他
人生には大きな影響を受けた人物が必ずいる…引き継がれたその熱きDNAの「遺伝」の「歴史」→「遺伝史」と名付け、スポーツ選手、映画監督、漫画家、政治家、作家、キャラクター…日本が世界に誇る話題50人のルーツを徹底解剖!
ブラック・ジャック」などの原作者・手塚治虫の意外な遺伝史を紹介。
17歳で漫画家としてデビューした手塚治虫だったが、医学生というもう一つの顔を持っていた。医者か漫画家で悩んでいた時に生命医学の先駆者である安澄権八郎教授から呼び出しを受け、「マンガを描くことで子どもの心の病気を治してやりなさい」という言葉を受けて、マンガで身を立てる覚悟を決めた。その後、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」などを生み出し、子ども達を夢中にさせた。
手塚治虫の思いは医師達に受け継がれ、南淵明宏は3年前7人の医師と新プロジェクトをスタートさせた。24時間救急対応、心臓に関する病気はどんな症状でも断らない、そのことで患者の最後の砦として頑張っていきたいという。
http://www.ntv.co.jp/idenshi/
手塚治虫 ウィキペディアより
手塚治虫(本名:手塚治)は、日本の漫画家、アニメーター、医学博士。
戦後日本において、ストーリー漫画の礎を築くなど現代にまでにつながる日本の漫画・アニメ文化の隆盛のきっかけを生み出したことから、存命中から「漫画の神様」と称された。
大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に出生し、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。大阪府立北野中学校在学中に第二次世界大戦(太平洋戦争)を経験、大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(「少国民新聞」連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』と、少年漫画・少女漫画・幼年漫画・大人漫画などさまざまなフィールドでヒット作を続々と発表した。
1961年には虫プロダクションを設立し、アニメ制作事業に乗り出す。1963年、自作をもとに日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。だが、1960年代後半より劇画がもてはやされる時流に乗り遅れ、漫画家としては一時低迷、1973年には虫プロダクションの倒産という挫折に見舞われた。この時期手塚は『どろろ』『火の鳥』などの作品で劇画の影響を消化し、作風を劇的に変容させる。1973年『ブラック・ジャック』の連載開始を期に完全復活、『三つ目がとおる』『ブッダ』などの傑作を手がけた。晩年の1980年代にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの作品をヒットさせ、デビューから1989年の死去まで第一線で活躍した。
長男に手塚眞、長女に手塚るみ子、次女に手塚千以子がいる。また、姪に声優の松山薫。
【晩年】
1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。同年5月に退院するものの以前とまったく変わらない多作振りを見せた。しかし同年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバル終了後に倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃がんであった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかった)。
翌1989年1月21日に手塚プロ社長がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃がんということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、手塚は病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。
そして、1989年(平成元年)2月9日午前10時50分死去。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所手塚プロダクションの社葬として、それぞれ営まれた。
その死によって『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。手塚が胃がんであることは周りの人間は誰も伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。
しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃がんにかかり、医者や周りは気遣って胃がんであることを伝えないが本人は胃がんであることを知っていて死亡するという内容が描かれている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
手塚治虫 (1928 - 1989) 61歳で死亡 【執筆者】村山正司 (一部抜粋しています)
50年代に入り、テレビという新しいメディアが現れた。テレビで自分の漫画を動かしてみたい・・・・。
鉄腕アトム』を題材に選ぶ。毎週30分ずつ新作アニメをテレビで放映する試みは、米国を含め、世界に例がなかった。
当時、90分の劇場用アニメの制作は、350人のスタッフで1年かかるというのが常識だった。しかし手塚の「虫プロダクション」には40人の社員しかいない。
常識外でやるしかなかった。
動画の数を減らす。1秒12コマの「フルアニメ」はあきらめ、コマ数のずっと少ない「リミテッドアニメ」にした。口だけを動かす「口パク」、同じ動きを違う場面で使い回す「バンクシステム」などの手法も開発した。それでもスタッフは徹夜の連続だった。
第1回「アトム誕生」は、62年の暮れに制作された。スタッフだった山本映一さん(62)が振り返る。
「先生は音楽のつけ方などよく知らなかった。台本では、話の冒頭から切れ目なく音楽を流すことになっていた。録音技師が、こんなにべたっと音楽をつけるもんじゃない、と素人あつかいしましてね」
山本さんを前に、技師たちは「これはいらない、あれもいらない」と音楽を切り刻み始めた。
アトムが「エネルギー」を注入され、目を開けるシーンの音楽は、ベートーベンの第五交響曲「運命」だ。アニメ史に残る有名な場面だが、技師たちはこれも外そうとした。
山本さんは抵抗する。アトム誕生のシーンは、「運命」の旋律に合わせて作画していたからだ。
「それでは手塚の作品じゃなくなってしまう。ほかは全部外していいから、これだけは残してください」
技師たちは剣幕に圧倒され、「運命」は一命をとりとめた。
放映は63年の元旦、午後6時15分。視聴率は27.4%を記録する。子供たちは手塚の冒険を熱烈に支持した。手塚はのちにこう書いている。
「この時の感慨は終生忘れないだろう。わが子のテレビ出演をハラハラと見守る親の気持ちだった」
フルアニメができないならストーリーに凝ろう。手塚はそう思い定めていたようだ。脚本チームの一員だったSF作家の豊田有恒さん(61)によると、手塚は物語のアイデアを機関銃のように繰り出してきたという。
「これが手塚さんの創作の秘密なんだと思いました。話の方向が決まると目をきらきら輝かせる。あの顔はいまだに覚えています」
日本での人気を背景に、アトムは米国に輸出された。『アストロボーイ』と改題され、全米300局以上で放映、高視聴率を取った。米国側ディレクターのフレッド・ラッドさんはいう。
「確かに絵の動きは少なかった。しかしコマ数なんて見る側には関係ない。ストーリーが勝負なんだ」
だが、アニメと漫画のかけ持ちは手塚の才能の限界を超えていた。漫画の質が徐々に落ちてくる。
追い討ちをかけるように、手塚の健全なストーリーとは対照的な「劇画」が若者の人気を集めはじめた。白土三平ら雑誌『ガロ』に集まった劇画家は、写実的な線で深刻なテーマを描いた。
鉄腕アトム』のアニメが3年目に入った65年3月、当時『少年マガジン』の編集者だった宮原照夫さん(61)に、手塚がもらした。
「ストーリー漫画もテレビアニメも、私は10年かけてつくった。それを人は2、3年で追いついてくる。もうパイオニアは疲れました」
73年、虫プロが倒産した。規模拡大と豊満な経理がたたった。手塚も終わりかと多くの人が思った。しかし手塚は『ブラック・ジャック』などをヒットさせ、3年で借金返済にめどをつけてしまう。
立ち直った手塚が取りかかったのは、やはりアニメだった。周囲は猛反対する。だが手塚の決意は固かった。負債整理を手伝った会社社長、葛西健蔵さん(73)は語る。
「なんぼいうてもきかんかった。鬼気せまるものがありましたな。やっぱり、絵を動かすことに命をかけておったんでしょうか」
アニメ再開は78年。最初に手がけたのは『森の伝説』だった。商業作品でなかったため、テレビや劇場用のアニメ制作が優先され、なかなか完成に至らなかった。
約30分の「ぱーと1」を発表したのは88年1月。これが実質的には最後のアニメとなった。
全編にチャイコフスキー交響曲第4番が流れ、登場するキャラクターはすべて音楽に合わせて動く。
物語は、アニメが発達する歴史を背景に進む。最初は紙芝居のようなぎこちない動きだったのが、しだいになめらかになり、やがてフルアニメの豊かな画面にいたる。
アトムでの無念を、25年後に晴らしているようなすばらしい画面・・・・。
共同監督の宇井孝司さん(37)は、制作中の手塚がうれしそうだったことをよく覚えている。
「やっと自分のアニメがつくれるという感じだったのでしょう。いつもスタジオに顔を出して、スタッフが休日返上で働いていると、すごく喜んでいました」
そのとき、手塚の口からこんな冗談が飛び出した。
「アニメとこじきは3日やったらやめられない。大体、アニメを3日やったらこじきになります」
幸福な手塚に残された時間は、しかし1年ほどしかなかった。

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そうだったのか 手塚治虫 天才が見抜いていた日本人の本質』 中野晴行著 祥伝社 2005年発行
エピローグ〜手塚治虫の不在〜 (一部抜粋しています)
2005年2月9日。
サッカー・ワールド・アジア最終予選、日本対北朝鮮戦が行われた夜。
東京のあるホテルでは「17回忌 手塚治虫を偲ぶ集い」が開かれた。さすがに17回忌ともなると、故人を偲んで悲しみを新たにするというよりは、友人・関係者やファンが集まって、旧交を温めるという雰囲気が強くなっている。非常に和気あい々としていて、そのうちに手塚先生が「どうもどうも」と言いながら現われそうな気さえしてくるから不思議だ。
会が終わってから、まだ話し足りない10人ばかりが、ホテルの喫茶室に移動することになった。そういう顔ぶれなので、当然のことながら誰かが、手塚先生が生きていたら、というような話題を出した。生きていればまだ79歳だから、きっとまだマンガを描いているに違いない。
そう考えると、われわれが手塚治虫不在の16年間をとりあえず生きてきたことが、なんだか不思議になってくる。16年間、われわれは、日本人は自分が何者であるか、という問いに答えを出せたのだろうか。
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90年8月2日にはイラン軍が隣国のクウェートに侵攻。これをきっかけに原油価格が高騰。この影響を受けて株価はさらに下落して10月1日には3年7ヵ月ぶりに東証一部平均株価が2万円を下回った。バブル崩壊である。
10月3日には東西ドイツ国家統一を達成。東西冷戦構造は完全に崩れた。
手塚治虫は歴史の大きな転換点をみることなく死んだのである。
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結局、日本人は何も変わってはいないのかも知れない。手塚治虫不在の16年間を、こんなにも簡単に受け入れられるのは、16年間前からわれわれが思考停止しているからじゃないだろうか。そんな気さえしてくる。
今のわれわれの姿を手塚治虫はどう見るのだろうか。

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今年は手塚治虫の生誕80年、20回目の命日に当たります。
鉄腕アトム」が、フルCG映画「ATOM」として10月10日(土)より公開されます。
http://blog.television.co.jp/entertainment/entnews/2009/07/20090722_08.html
手塚治虫の言葉
「一流の漫画家になりたかったら一流の映画を見て一流の音楽を聴いて一流の本を読め 」

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