じじぃの「人の死にざま_15_ケインズ」

あの人に会いたい ジョン・メイナード・ケインズ SPYSEE
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ケインズvsハイエク 動画 YouTube
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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【経済学者】ジョン・メイナード・ケインズ 【執筆者】ロバート・B・ライシュ (一部抜粋しています)
彼の名前が初めて世間に知られるようになったのは、大戦直後、彼が1918年から19年のパリ講和会議の代表のひとりに選ばれた時だった。ロッドロー・ウィルソン、デービッド・ロイド・ジョージ、ジョルジュ・クレマンソーらがドイツに対して懲罰的な戦争賠償金を科した時、若いケインズは沈黙を守った。しかし帰国後ただちに、『平和の経済的帰結』という小冊子を書くことで、強い反対の意思を表明した。
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しかし、ケインズが最大の影響力を持つにいたったのは、大恐慌のさなかの1936年に出版された複雑で、構成がまずく、ほとんど理解不能な箇所が随所に見られるある著作がきっかけだった。その本は『雇用・利子および貨幣の一般理論』と呼ばれた。
ケインズの基本的な考え方は単純明快だった。人々の雇用を十分に確保するためには、景気が下降し始めたら、政府は財政赤字を計上する必要がある。なぜなら民間部門が十分に投資しないからだ。各市場が飽和状態になるにつれて、企業は投資を減らし、危険なサイクルへと陥っていく。すなわち、投資資金を切り詰めることで、雇用は減少し、消費も衰える。そしてさらに企業の投資意欲が減退する、というわけだ。経済は完全な均衡状態に達するかもしれないが、それには高い失業率と社会不安という犠牲が伴う。政府は盛んに投資することによって、まずその痛みを回避したほうがいい。
政府が赤字を出すのはいいことだという考え方は、今では奇妙に聞こえる。過去20年間のほとんどの間、アメリカの最大の悩みは「過剰な」需要がもたらすインフレだった。1970年代には、インフレ率が急上昇してふたケタになり、1980年代には財政赤字が膨れ上がり、そして、現在は民主党の大統領が予算の黒字を喜び、それを債務の返済に充てたいと考えている。しかし60年ほど前、成人の4人に1人が失業だった時代に問題となっていたのは、需要が振るわないということだった。
そのころでさえ、ケインズは自説の売り込みに苦労していた。当時の経済学者のほとんどが、彼の考え方を受け入れず、均衡予算を好んだ。何より、ほとんどの政治家が、かれの考え方を理解していなかった。「実務者たちは、自分たちがいかなる識者の影響も一切受けていないような気になっているが、おおかたは過去の経済学者の奴隷になっている」とケインズは書いている。1932年の大統領選挙でフランクリン・D.ルーズベルト(FDR)は、赤字を出したという理由でハーバード・フーバーを激しく攻撃し、もし自分が選出されたら、予算を均衡させると律儀に約束した。2年後、ケインズは大統領に赤字支出を増やすように勧めるためにホワイトハウスを訪ねたが、この説得は成功を収めたとは言えなかった。「彼は数字だらけの書類を残していった」と、困惑したFDRはフランセス・パーキンズ労働長官にこぼした。「彼は政治経済学者というよりは、きっと数学者であるに違いない」。ケインズも同じように興ざめして、「大統領はもっと経済の話がわかると思っていた」とパーキンズに話した。
大恐慌が長引く中、ルーズベルトは公共企業、農業補助金、その他、経済を再発進させるための処置をいろいろ試みながらも、予算を均衡させようという考えを完全には放棄していなかった。1938年、大恐慌は一段と深刻化した。FDRは、新しい考えの中でたったひとつまだ試していないもの、つまり、例の妙なイギリス人「数学者」の考えを渋々採用することにした。大統領が炉辺談義で説明したように、「アメリカが困難な状況に陥っているのは、主に購買力不足で消費者需要が振るわないからだ」。だから、「国全体の購買力を強化」して「経済を好転させる」ことは、政府の役目だった。
しかしFDRが、国を停滞から引っ張り上げられるだけの規模でケインズの考え方を実践するのは、アメリカが第2次大戦に参戦してからのことだった−−もちろん、その時にはそうする以外、彼には選択の余地がほとんどなかったのだ。人々をおおいに驚かせたのは、機会が与えられれば、アメリカがいかに高い生産性を示せるか、ということだった。1939年から44年までの間(戦時の生産ピーク)に、この国の生産高はほぼ2倍になり、17%を超えていた失業率は1%ちょっとにまで激減した。
ひとつの経済理論がこれほど劇的に試されたことはかってなかった。戦時体制という特殊な状況下だったとはいえ、ケインズの理論は彼の予言どおりの効果をもたらしたように見えた。この壮大な実験は、多くの共和党員をも感服させた。ケインズがこの世を去った1946年にアメリカで制定された雇用法は、その新しい英知を成文化し、「連邦政府の継続的な方針にして責務は・・・・最大限の雇用、生産、購買力を促進すること」であるとした。

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しりとり歴史人物館 (一部抜粋しています)
過剰なまでの自信で常に言いたいことを言い、やりたいことをやって数多くの業績と論敵を作り続けたケインズでしたが、実力以外で人を差別することがほとんど無く、スラッファーのようなイタリア人や、ジョーン=ロビンソンのような女性も含めた多くの優れた研究者を育成しました。また、婦人参政権運動を裏方として支えたことでも知られています。

「不幸の予言者」だった彼でしたが、その予言を的中させていたことによって認められ、時代が彼を受け入れるようになって、ついには現実を変える「説得者」となって自らの構想を概ね現実のものとしました。そういう意味では、終わってみると「功成り、名を遂げ」た幸運な生涯だったかもしれません。晩年、ある友人に「何かやり残した事があるか?」と聞かれたケインズは「もっとシャンペンが飲めたらそれで良い」と答えたそうです。(了 1999/6/14/K・E・N) 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/siritori/keinz.html