Are Electric Cars Worse For The Environment? Myth Busted
デカップリングの実現
デカップリングとは何か?
始めよう! グリーンエネルギーの社会
これまでの社会では、経済成長に比例してエネルギー消費も増えるとされてきました。企業活動が活発になり、生活が豊かで便利になれば、電力やガスをたくさん使うのはもっともなように思われます。
デカップリングとは、これに対して一定の経済成長や便利さを維持しつつも、エネルギー消費を減らしていく、即ち両者を「切り離す」という考え方です。 例えば、資源の再利用・循環利用を行う、エネルギー多消費の産業構造を改める、これまでにない手法で省エネすることにより、デカップリングは可能です。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/npu/policy09/greenenergy/green_growth_strategy/decoupling/index.html#:~:text=%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%93%E3%82%8C,%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AF%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
第2章――気候ケインズ主義の限界 より
グリーン・ニューディールという希望?
第1章では、資本主義が人間だけでなく、自然環境からも掠奪するシステムであることを見た。そのうえ、資本主義は、負荷が外部に転嫁することで、経済成長を続けていく。そうした負荷の外部化がうまくいっていたあいだは、先進国に住む私たちは環境危機に苦しむこともなく、豊かな生活を送ることができてきた。だから、豊かな生活の「本当のコスト」についても、私たちは真剣に考えてこなかった。
だが、そのような資本主義システムこそ、環境危機をここまで深刻化させた原因である。負荷が不可視化されていることに甘えて、うすうす気づいていながら、現実から目を背けていた先進国の私たちのせいで、対策を打つのが遅れてしまったのだ。
そうこうしているうちに、「本当のコスト」はもはや無視できないものになりつつある。ポイント・オブ・ノーリターンに至るまでの残された時間がわずかになるなかで、前例を見ないような「大胆な」政策の可能性がついに先進国でも議論されるようになっているのである。
なかでも大きな期待を集めている政策プランのひとつが、「グリーン・ニューディール」だ。例えば、アメリカでは、トーマス・フリードマンやジェレミー・リフキンといった識者たちが提唱し、その必要性を擁護している。バーニー・サンダースやジェレミー・コービン、ヤニス・ヴァルファキスといった世界中の名だたる政治家たちも、中身に決定的な違いはあるもののグリーン・ニューディールの看板を選挙公約に掲げていた。
グリーン・ニューディールは、再生可能エネルギーや電気エネルギーを普及させるための大型財政出動や公共投資を行う。そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への移行を加速させると期待するのだ。
かつて20世紀の大恐慌から資本主義を救ったニューディール政策の再来を、という願いがここには読み取れる。危機の時代に、新自由主義はもはや無効だ。緊縮と「小さな政府」では対応できない。これからは、新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だ、というわけである。
だが、果たして、そのようなうまい話があるのか。グリーン・ニューディールは、本当に「人新世」の時代の救世主になれるのだろうか。第2章では、グリーン・ニューディールの問題点を検討していきたい。
電気自動車の「本当のコスト」
さて、それでもデカップリング(経済成長や便利さを維持しつつも、エネルギー消費を減らしていく)の可能性にかけて、経済成長を目指してグリーン投資を継続し、市場を拡大していった場合、どうなるのだろうか。この点について、テスラのような電気自動車を例にとって、考えてみたい。
現在、ガソリン自動車が世界中で膨大な量の二酸化炭素を排出しているのは間違いない。だからこそ、低炭素車両を導入する緊急性は高いし、国はそのための積極的支援を行なうべきである
そして先述したように、ガソリン自動車をすべて電気自動車に置き換えるなら、巨大な新市場と雇用が生まれる。それによって、気候危機も経済危機も解決されるというわけだ。これじ、気候ケインズ主義の理想形である。しかし、そう甘い話はない。
ここで鍵となるのが、2019年に吉野彰がノーベル化学賞を受賞したことで日本でも注目を浴びたリチウムイオン電池である。スマートフォンやノートパソコンだけでなく、電気自動車にもリチウムイオン電池が不可欠であるが、このリチウムイオン電池の製造には、さまざまなレアメタルが大量に使用される。
まずは、当然リチウムが必要となる。リチウムの多くはアンデス山脈沿いの地域に埋まっている。そして、アタカマ塩原のあるチリが最大の産油国である。
リチウムは乾燥した地域で長い時間をかけて地下水として濃縮されていく。それゆえ塩湖の地下から、リチウムを含んだ鹹水(かんすい)をくみ上げ、その水を蒸発させることで、リチウムが採取されるのである。いってみれば、リチウム採掘は、地下水の吸い上げと同義である。
問題なのは、その量だ。1社だけでも、1秒あたり1700Lもの地下水をくみ上げているという。元素乾燥した地帯における、そのような大量の地下水のくみ上げは、地域の生態系に大きな影響を与えざるを得ない。
技術楽観論では解決しない。
さらに、都合の悪いことがある。先進国での緑の政策の効果さえも疑わしいのだ。そもそも各家庭が複数台の自動車を所有している状態は、たとえそれが電気自動車であっても、けっして持続可能ではない。ましてや、テスラやフォードによるSUV型の電気自動車の販売計画は、既存の消費文化を強化し、より多くの資源を浪費することにしかならない。まさに、グリーン・ウォッシュ(あたかも環境に配慮しているかのように見せかけて、消費者に誤解を与えるようなこと)の典型である。
実際、電気自動車の生産、その原料の採掘でも石油燃料が使用され、二酸化炭素は排出される。さらには、電気自動車のせいで増大する電力消費量を補うために、ますます多くの太陽光パネルや風力発電の設置が必要となり、そのために資源が採掘され、発電装置の製造でさらなる二酸化炭素が排出される。もちろん、環境も破壊される。「ジェヴォンズのパラドックス(技術の進歩により資源利用の効率性が向上したにもかかわらず、資源の消費量は減らずにむしろ増加してしまうこと)」だ。結果的に、環境危機は悪化していく。
ここにダメ押しのデータがある。IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという。ところが、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのだ。
なぜだろうか? そもそも、電気自動車に代えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。
以上の考察からもわかるように、グリーン技術は、その生産過程にまで目を向けると、それほどグリーンではない。生産の実態は不可視化されているが、相変わらず、ひとつの問題を別の問題へと転嫁しているだけなのだ。