じじぃの「未解決ファイル_05_邪馬台国」

邪馬台国発見 プロローグ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=a5jTd010l5w&feature=related
知恵泉邪馬台国古代ミステリー(2)女王卑弥呼の謎 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x5llel7
歴史秘話ヒストリア 「女王・卑弥呼は どこから来た? 〜最新研究から読み解く 二つの都の物語〜」 2014年6月4日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ
●エピソード1 卑弥呼はここに住んだ?纒向遺跡
簡素な竪穴住居が一般的だった時代、高床式建物が並ぶ“都市”−奈良県・纏向(まきむく)遺跡から推測された景観です。ところがこの遺跡、近畿にあって同地域の他の遺跡と異なり、むしろ日本の他の地方との共通性が数多く発見されました。纏向は、九州から関東の人々が集住した古代都市だったのか。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定 asahi.com朝日新聞社) 2009年5月29日 より
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
邪馬台国は纒向にあった
http://hihabe.com/shkodai4.html
文藝春秋2009年8月号 より
タイトル:再燃 邪馬台国論争 卑弥呼の墓はどこだ」
古代史最大の謎の最新事情を語り尽くす
上田正昭(歴史学者)/大塚初重(考古学者)/高島忠平(考古学者)
大塚 畿内説の多くは行程を連続的に読みますが、要は途中の方位が間違っていたとすることでです。不弥国から「南」に「水行二十日」で投馬国、そこからさらに「南」に「水行十日陸行一月」で邪馬台国とあるのを「東」の間違いだとして、畿内に辿りついたと読みます。
上田 いわゆる「魏志倭人伝」には倭国は会稽群・東冶県(福建省びん侯県付近)の東にあると明記されています。つまり中国から見て、今の沖縄諸島がある南の方向に浮かぶ島国だと考えられていた。そのような地理観に立っているから、南に向かうのは当たり前なんです。
そもそも「魏志倭人伝」などという本はありません。晋の陳寿(233〜297年)が書いた『三国志』のなかの「魏書」その30巻中の「東夷伝」のなかの倭人の条というべきです。その条を研究するならば、『三国志』あるいは「魏書」全体に一応目を通し「東夷伝」がどのようなものなのかを見極めなければならない。漢字が読めるからといって。現在の私たちの感覚のみで読んではいけない。
たとえば、卑弥呼は「年、己に最大なるも夫婿無し」と書かれているから、年寄りのおばあさんだと早合点してしまうかもしれないが、それは間違いです。陳寿が『三国志』で「長大」と記している人物の年齢を調べると20代か30代です。昔、30代の岩下志麻さんが映画で卑弥呼を演じていましたが、あの姿が妥当(笑)。
卑弥呼が王になった経緯を記した有名な条にも落とし穴があります。
「其の國、本亦、男子を以て王と爲す。住まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と爲す。名は卑弥呼と曰う」
この「共立」を、争っていた部族間で話し合って、同盟によって卑弥呼を王にした、とする説が有力ですが、「魏書」全体を読んで検討すると、「共立」は嫡子ではなく、庶子などに王位を継がせる場合に使っています。
邪馬台国論争に並々ならぬ関心を生涯寄せられていた松本清張さんは「東夷伝」を精読した上で、邪馬台国までの里程や戸数の記述について、興味深い解釈をされました。邪馬台国までの里程や戸数を示す数字は陰陽五行説による影響を受けていて、信用するに値しないとしたのです。清張さんは方位の記述だけは信用できると考えたから、九州説の立場を取った。清張さんの文献を読解する姿勢は、さすがだと思いました。「魏志倭人伝」の記述だけを読んでパズルのように自説を組み立てると、とんでもない間違いを犯すことになります。
そもそも、古い文献はみんな畿内説ですね。7世紀に書かれた『隋書』には倭国の都が「邪靡堆(やまと)」にあり、それは「魏志倭人伝」がいうところの「邪馬台」だと記されているし、720年に完成した『日本書紀』では神功皇后の条に「魏志倭人伝」が3箇所、引用されています。
高島 日本考古学の知見では、弥生時代においては九州、特に北部九州が日本のなかでいちばんの先進地域だったことは疑いの余地がありません。いち早く各地に国づくりがされ、朝鮮半島や大陸の技術や文化を摂取できた北部九州に邪馬台国があったと考えるのが自然なのです。
大塚 考古学から見ると、九州説最大の強みは鉄ですね。北部九州から弥生時代の鉄器は2000点以上出ているのに、畿内説の中心、奈良県からはほとんど出てこない。九州説の皆さんは2言目には「鉄で来い!」と言う(笑)。

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どうでもいい、じじぃの日記。
文藝春秋』 8月号を買ってきた。
卑弥呼の墓はどこだ」が載っている。
対談形式になっており、対談の最後に上田氏の「私はよく邪馬台国論争は古代史の「忠臣蔵」だと言っているんです。いつやってもお客さんが集まる。・・・」がある。
じじぃも参加してみることにした。
約20年前に松本清張 『清張通史2 空白の世紀』を読んだ。『清張通史1 邪馬台国』は邪馬台国のことが書かれているので邪馬台国のことを書くんだったら、清張通史1を読んでどうだこうだとしないといけないのだろうが、しょうがない。清張通史2でもその頃の時代背景が書かれている。
もう一度、読み返してみたことと、ネットで清張通史1の概要も覗いてみた。清張通史1は邪馬台国は北九州にあったとする説のようだ。
ここ千葉の東金はどうだか知らないが、神奈川県の藤沢に住んでいたころ、藤沢図書館で郷土史を読んだ。藤沢周辺には鎌倉時代、朝鮮からの渡来人が随分きたらしい。
ネットで「日本人のルーツ」をキーに検索すると日本人バイカル湖畔起源説がある。ミトコンドリアDNAを調べると中国東北部の人と朝鮮人と日本人はほぼ同じようだ。
日本には最初、朝鮮に近い九州に朝鮮からの渡来人が住みつき、しだいに近畿や、関東へと移り住んだのだろう。
『清張通史2 空白の世紀』でも、卑弥呼がいた時代、朝鮮に近い北九州が一番進んだ地帯であり、近畿や、関東はまだ未開の土地だったようなことが書かれている。
北九州が一番進んだ地帯だったからこそ、新しい都を近畿の奈良に造ったというのが無理なく理解できる。
白村江の戦い」というのがある。大和朝廷百済を助けるために戦ったというのだが、大和朝廷のルーツが百済であったと考えると一番分かりやすい。
奈良に卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳がある。卑弥呼の時代に北九州が一番進んでいたとしても、日本の政治の中心がすでに奈良に移っていたとは考えられないのだろうか。
卑弥呼は魏から「親魏倭王」の称号を受け、金印を授けられた。卑弥呼の墓は箸墓古墳から金印が出土されれば、これで決まり!!なのだが。