じじぃの「人の死にざま_03_宮沢・賢治」

宮沢賢治 - あのひと検索 SPYSEE
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映画 銀河鉄道の夜 原作:宮沢賢治 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=K9Hm8QO65Ig
歴史秘話ヒストリア 2010.5.12 NHK
雨にも負けぬサラリーマン 〜宮沢賢治 最期の2年半〜
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/45.html
『図説 宮沢賢治 上田哲、大矢邦宣、関山房兵、池野正樹著 河出書房新社 (一部抜粋しています)
終焉
賢治は、死の迫っていることを知っていたようである。1933年9月17日から19日までの鳥谷ヶ崎神社の祭礼の光景を、3日間、門のあたりまで出たり店先に座りながら眺めたり、例年になく心ゆくまで楽しんだ。最後の19日は夜の8時まで門口にいた。この年は、凶作つづきの岩手にとって考えられないほどの大豊作であったことも、賢治の心をときほぐし、祭りを楽しむ心のゆとりをもたせたのであろう。また、これが祭礼の見おさめになるかもしれないという死の予感が、そうさせたのかもしれない。
彼の絶筆となった短歌二首、
方十里 稗貫のみかも稲熟れて
 み祭三日 そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにも くちん いのちなり
 みのりに棄てばうれしからまし
は、そのことをよく語っている。
20日は、前晩の夜更かしと夜露にあたったことがたたって急性肺炎の兆候が見え、苦しそうな息遣いをするようになった。それにもかかわらず、夜の7時ごろ肥料設計の相談に農民がみえると、夜遅くまで懇切な指導をし、家人をはらはらさせた。
こうして1933年(昭和8)短いが充実した37年の生涯をとじたのである。

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宮沢賢治 ウィキペディアWikipedia)より
宮沢賢治(1896年8月1日-1933年9月21日)は、日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者。 郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の地名、理想郷を「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov)(イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。 その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになった。
年譜
昭和3年(1928年) 6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
昭和6年(1931年) 病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11月3日、手帳に雨ニモマケズを書き留める。
昭和8年(1933年) 9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。

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手帳に記された『雨ニモマケズ』の原文です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

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宮沢賢治 (一部抜粋しています)
どこがすごいのか?
詩人・童話作家であり科学者でもあった宮沢賢治
風の又三郎』や『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』などはみなさんも一度は読んだことがあるのではないでしょうか。
これらはいずれも70年以上もの昔の作品で、(2008年現在)それが今なお読み継がれているのです。
一見して普通に思われるかもしれませんが、実はこれは尋常なことではありません。
なぜならこれは、今一年間に新刊書が7万点以上出版されているのにもかかわらず、それらの本に埋没せずにいるということなのですから。
長い間わたしたちの記憶とともに生き続けてきたというわけです。
http://history.ktn8.com/%8B%7B%91%F2%8C%AB%8E%A1/
宮沢賢治 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB&oi=image_result_group&sa=X