『検索バカ』 藤原智美著 朝日新書 (一部抜粋しています)
「休む」ことは生きていく上で必要な時間です。それを「考えること」とおきかえても何らさしつかえありません。
ではなぜ「考えること」が生きていく上で必要な時間なのか?
それは私たちがどんなときにもっとも考えるか、「1人沈潜するか」を思い起こせばいいのです。
失業したとき、でしょうか?もちろん考えます。つぎの仕事はあるのか? 生活費はどうするのか?
病気になったとき? もろろん考えます。いつ退院できるのか? 心配してくれている人はいるのか?
恋愛したとき? もちろん考えます。相手は私のことをどう思っているのか?
失恋したときもおなじです。なぜ?
家族の気持ちがバラバラになったと感じたときも、なぜ?
いったん考えるということにとりつかれると、思考の領域は拡大していきます。仕事、病気、恋愛、家族をはなれ、過去の記憶から自分の人生、すっかり忘れていた人のことがよみがえったりと、思考の色合いは変容していきます。
どうしてでしょう、私たちは窮すれば窮するほど考えるのは?なぜ、つい考えてしまうのか?
「そんなに考えこまないで、気晴らしでも」などといわれても、少しもうれしくないことがあります。放っておいてほしいと思います。
なぜか?
それは、考えるということを奪われたくないからなのです。いま考えないと、生きていられないくらい苦しいからです。そんなとき、ほかに何をしろというのか!と憤ったりします。
悩み、苦しみ「考えること」はいわばひとつの治療行為といっていいかもしれません。苦しんだり、悩んだりしているとき、人がひたすら考えるのは、そのことを私たちが無意識に知っているからでしょう。
ではなぜ私たちは「考えること」ことで「悩み」「苦しみ」から逃れられる、と思うのでしょう。私は「考えること」ということが、自分の言葉を探りあてる営みだからだ、と思います。
人によっては、自分の閉じられた思考のなかに、悩み、苦しみを解消するということもあるかもしれません。
しかしもう一つ、他者とのつながりのなかで、悩みを聞いていくということもあります。だれかと私をつなぐのは言葉です。私たちが悩み考えながら、自分の言葉を探すのは、他者とのつながりの手がかりを求めるということでもあると思います。
いまインターネットには膨大な数の言葉が浮遊しています。だれかに探しだされて、読まれるのを心待ちにしている言葉たちです。すべてが検索とコピペでつくられたガラクタではありません。この数年で突如出現したブログ、あるいはケータイ小説という言葉の海は、書くということ、考えてそして言葉をつむぐということへの、私たちの捨てがたい欲望のあらわれでしょう。
私たちは言葉で自分を理解し、言葉でだれかとつながるということを、常に目指しているのだと思います。
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どうでもいい、じじぃの日記。
うちのばばぁ(女房)が東金のA病院に入院して2週間になる。
この2週間、家で一人で過ごした。初めて洗濯機で洗濯をした。洗濯機に「セレクト」、「セット」、「予約」、「洗い」、「すすぎ」、「脱水」などいろんなボタンがある。全自動というからには洗濯物を放り込んで、洗剤を入れれば勝手にやってくれるんだろうとは思っていた。だが「予約」とは何だろう、「セット」というからには何か設定しないといけないのかなどを考えると、「電源」→「スタート」ボタンを押す気持ちにはなれない。ちゃんと水は入ってくれるのだろうか。1回目の洗濯。まぁ「洗い」をセットしてやってみるか、おっ。ちゃんと自動的に水が入って「洗い」をやってくれている。「洗い」→「すすぎ」→「脱水」を確認しながら洗濯が無事、終了。2回目の洗濯は「電源」→「スタート」ボタンで全自動洗濯ができた。「かしこいなぁ」とは時代遅れのじじぃなのでした。
家で、一人で生活していて急にさみしくなった。
先日週刊誌に載っていた「長生き、怖い」を思い出した。
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20090513/1242162694
この歳になって、他者とのつながりがほとんど無い生活を送っている。日本のお年寄りのほとんどは似たような生活を送っているのだろうか。何か、生きているのが虚しい気がしてきた。
第2の人生ともいう。ここいらで、人生の再構築をしないといけないのだろう。
「再構築」をキーに検索したら「リストラ」が出てきた。