じじぃの「ジョン万次郎」考

ジョン万次郎 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)とは、幕末の日本で活躍した通訳・教師。本名、中濱 万次郎(なかはま まんじろう)。
「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まった(それ以前には使用されていない)。
生涯
土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。死亡した父や病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった。
天保12年(1841年)、14歳の時に漁師の手伝いで漁に出て遭難し、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。
アメリカに渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、学校で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、彼にとって新鮮な概念にも触れる。卒業後は捕鯨船に乗り組む道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれた(投票では1位が2人いたが、船長の地位は年長者に譲った)。数年間、捕鯨船員として生活していたが日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュであったカルフォルニアで金を採掘する(おそらくゴールドラッシュに参加した唯一の日本人であろう)。得た資金で船を購入し「アドベンチャー号」と名付け、ハワイに寄港、元の仲間と再会し、嘉永4年(1851年)共に薩摩藩領の琉球に到達して、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩江戸幕府長崎奉行所などで長期間尋問を受けるが、その際に薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしている。帰国から約2年後に何とか土佐に帰ることができたが、当時ペリーの来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、嘉永6年(1853年)、幕府に召聘され江戸へ行き直参の旗本となった。この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授けられた。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、やがて野に下された。もともと士族の生まれでない万次郎が、アメリカ人とも気負いなく対等に交友することをやっかむ者も多かったのである。
当時、英語をまともに話せるのは万次郎一人だったため、ペリーとの通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされた。
英会話書『日米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、造船の指揮、講演、通訳、船の買付など精力的に働く(万次郎は『ABCの歌』を日本に初めて紹介した人物である)。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いだったため、万次郎は彼に代って船内の秩序保持に努めた。ここでも彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたようである。アメリカで恩人ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、日本との大戦中でさえ展示されていたが、後に何者かに盗まれた)。
維新後、開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。帰国後に脳溢血を起こし、以後は静かに暮らす。

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【次代への名言】2月25日・福沢諭吉 2009.2.25 MSN産経ニュース
■「これはなんのことはない、牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」(福沢諭吉
当時25歳だった福沢諭吉は晩冬から早春にかけての太平洋の荒波をこう表現している。福沢や艦長の勝海舟、通訳の中浜(ジョン)万次郎ら107人を乗せた咸臨丸(かんりんまる)は1860年のきょう、米西海岸のサンフランシスコに到着した(咸臨丸の日誌や日本暦では翌日付となるが、小欄では1日早い米国暦=3月17日=に対応した旧暦を採用している)。咸臨丸は幕府がオランダに注文した蒸気軍艦で船価は10万ドル。最初の名は「ヤッパン(日本丸)」といった。
『万延(まんえん)元年遣米使節史料集成』によると、往路はブルック海軍大尉をはじめ、乗船していた11人の米国人に「ときには船の操作いっさいをほとんど委ねぎりであった」らしいという。ただ、帰りの航海は日本人のみといってよく、「海軍」が誕生したのがわずか5年前だったことも考え合わせると、後年、福沢や勝が誇ったように、やはり快挙だった。
サンフランシスコ市民はこの最初の日本使節を盛大に迎え、地元紙も「船影見ゆ」から上陸まで大いに報じた。そのなかに「彼らの容姿はわれわれがこれまでに目にしたどの中国人よりはるかに知的である」という一文がある。少し気になるが、「ほめことば」としておこう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090225/acd0902250334000-n1.htm
【話の肖像画 心を育め(上) 聖路加国際病院理事長・日野原重明さん 3月3日 産経新聞 (一部抜粋しています)
■万次郎の功績伝えたい
    ・
−−記念館は間もなくオープンですね
日野原 ジョン万次郎が166年前、アメリカに上陸した「5月7日」に合わせて、オープニング・セレモニーを行います。万次郎とホイットフィールド船長の子孫が出席して握手を交わし、日本から同行する室内楽団の演奏で、日米両国の国歌を歌います。記念館は今後、日米の文化交流の拠点となるでしょう。
できれば、オバマ新大統領と日本の首相との日米首脳会談をこの記念館でやっていただきたい。外務省も前向きですよ。
−−なぜ、そこまでジョン万次郎に
日野原 わずか14歳の少年が異国でホームステイをしながら苦労をして学問を修め、“日米の橋渡し役”として大事な仕事をしました。アメリカの歴代大統領が、こぞって彼の功績を称賛していますよ。日本ではこうした歴史を教えないから、ジョン万次郎のことがあまり知られていません。私はジョン万次郎をお札の肖像や切手に採用するよう働きかける運動を起こすつもりです。
現代の日本の子供たちをみてください。確かに豊かな社会になりましたが、一人っ子が増えたために、親が甘やかし、何でもすぐに買い与えてしまう。厳しさに耐えることや、他人に分け与えるということも知りません。
勇敢で勤勉な万次郎少年は、多くのアメリカ人に愛されました。そして、万次郎を助け、チャンスを与えてくれたホイットフィールド船長の好意も素晴らしい。日本の子供たちに、ぜひそのことを伝えたいのです。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090303/acd0903030240001-n1.htm
万延元年(1860年)、咸臨丸でアメリカに渡った人々 出典:平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ (編集して載せています)
http://heitaroh.exblog.jp/7718158/
・勝 海舟(かつ かいしゅう) 明治維新後、海軍大輔に命じられた。
・福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち) 明治維新後、慶應義塾を創設した。
・中浜(ジョン)万次郎(なかはま まんじろう) 維新後、東京大学の教授に任命された。
・木村 芥舟(きむら かいしゅう) 咸臨丸の司令官を務めた。明治維新後、長崎海軍伝習所の取締に就任する。官位は摂津守、兵庫頭。
・小栗 忠順(おぐり ただまさ) 帰国後、勘定奉行軍艦奉行などを務めた。小栗上野介とも称される。
・新見 正興(しんみ まさおき) 帰国後、外国奉行および神奈川奉行に就任した。

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どうでもいい、じじぃの日記。
3月3日の産経新聞に、日野原重明氏の談話「万次郎の功績伝えたい」が載っている。
日野原重明氏が日米友好の証しとして、ジョン万次郎がアメリカで過ごしたマサチューセッツ州フェアヘーブンを記念館にするための募金を呼びかけている。発起人は小沢征爾氏(指揮者)や緒方貞子氏(国際協力機構理事長)、利根川進氏(マサチューセッツ工科大教授)、瀬戸内寂聴氏(作家・僧侶)など。募金額はすでに1億円を超えているそうだ。
「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として開館するのは、万次郎を救助し、教育を受けさせてくれた捕鯨船のホイットフィールド船長の元自宅である。
万延元年、咸臨丸でアメリカへ向かったメンバーは、勝海舟福沢諭吉等など、使節3名と随員74名だった。
ジョン万次郎は通訳として渡米している。
アメリカへ向かった、勝海舟福沢諭吉等はアメリカで見識を磨き、明治維新の先達者となったのであった。
ジョン万次郎がいなかったら、万延元年、咸臨丸でアメリカに渡った人々は存在したのであろうか。もしかしたら、明治維新は、今、我々が習っている歴史とは異なっていたかもしれない。
日野原重明氏は現在、97歳である。
どうでもいい、じじぃとはちょっと違う。