じじぃの「科学・地球_437_アルツハイマー征服・ヒューマニンの発見」

Women and Alzheimer’s Disease


Women and Alzheimer’s Disease: Does it Affect Them Differently?

May 3, 2022 Ingleside
●WOMEN ENGAGE IN LESS EXERCISE
Those who exercise may have a lower risk of developing Alzheimer’s disease but typically women exercise less than men. One study observed women who maintained a high fitness level were 88% less likely to develop dementia than those functioning at a medium fitness level.
https://inglesideonline.org/women-and-alzheimers-disease-does-it-affect-them-differently/

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第15章 アミロイド・カスケード・セオリーへの疑問 より

  アミロイド斑は原因ではない結果である。そう言ってまったく別のアプローチをとろうとした日本人科学者がいた。がその支流は大きくはならず枯れてしまう。その一部始終。

バピネツマブ(ベータアミロイドを標的とするアルツハイマー病治療薬)の治験中止についてはスキャンダルのおまけがついた。
フェーズ2の治験委員会の長をしていたミシガン大学シドニー・ジルマンが、治験の内容を、正式に公表する12日前に、ヘッジ・ファンドの経営者マシュー・マートーマに話し、マートーマは、その情報を得たことで、エラン社とワイス社の株を売り、2億7600万ドルの損失を防いでいた。それがFBIの知るところとなり、マートーマが逮捕されたのだった。
ジルマンは、長年ウォール・ストリートの複数のヘッジ・ファンドのコンサルをやって莫大な収入を得ていた。
シドニー・ジルマンは、捜査に協力することで逮捕はされなかったが、しかし、そのニュースが明るみに出ると大学の職を失い、それまでアルツハイマー病であげた名声は無に帰した。
しかし、科学者たちにとって、このスキャンダルよりも大きな問題は、抗体薬の治験で治療的効果が認められないということだった。ジルマンが漏らしたフェーズ2の結果も、治療の側面では期待されたような結果は出ていなかった、ということをヘッジ・ファンドに漏らしていたのである。
バピネツマブのフェーズ3の結果が発表された翌月、イーライリリーが、ソラネズマブの第三相治験の中止を、「治療効果を達成していない」として発表していた。ソラネズマブは、アセナ・ニューロサイエンス時代に、デール・シェンクとピーター・スーベルトがPDAPPマウスで開発をしていた「266」という抗体を「ヒト化」したもので、エランに買収される際に、イーライリリーに権利を売却したことはすでに書いた。
アミロイド・カスケード・セオリーにのった抗体薬のロジックはこうだ。
アミロイド・カスケード・セオリーによれば、アミロイドが脳の中にたまっていき、凝集し、ベータシート構造になって、脳に沈着する。これがアミロイド班(老人斑)で、それがたまってくると、神経細胞内に、タウが固まった神経原線維変化が生じてくる。そうすると、神経細胞が死んで、脱落する。それがアルツハイマー病の症状をおこす。
であれば、そのカスケードの最初のドミノの1枚を抜いてしまえばよい。アミロイドが凝縮したものを脳内からとりさってしまえば、カスケードは起きないはずだ。
アミロイドを直接注射することで、生じる抗体によってとりのぞくという「ワクチン療法」で、実際に、マウスの脳からアミロイド班が消え去ったという報告を、シェンクらがネイチャー誌に1999年に発表したことはすでに書いた。2000年代の初頭は、「アルツハイマー病の根本治療薬」が明日にでもできるような熱狂に、学界も、ジャーナリズムもウォール・ストリートもわいた。
実際AN1792(アルツハイマー病ワクチン)が失敗したあとの2002年12月に、シェンクやドラ、ピーターをサンフランシスコの研究所に私は訪ねているが、その熱気をじかに感じることができた。彼らは、自信をもってこのアプローチの革新性を話し、開発中の抗体薬の可能性について語ったのだった。
が、2010年代になって、最初に治験に入ったバピネツマブやソラネズマブで効果が得られなかったという治験結果が出てくると、ウォール・ストリートやジャーナリズムは、強い疑問をもちだす。
そもそも、アミロイド・カスケード・セオリーは正しいのだろうか?
1990年代から、アミロイド・カスケード・セオリーに疑問をていする研究者はごく少数ながらいた。
本章ではその違う道筋からアルツハイマー病にいどもうとした一人の日本人科学者について書くことにしよう。

細胞内信号伝達からのアプローチ

「アミロイド班というのは、宇宙人科学者からみたアーリントン墓地の墓石のようなものだ。墓石をとりのぞいても遺体は生き返らない」
そのように主張していたのは、東大の第四内科から1992年にハーバード大学医学部の准教授に抜擢された西本征央(いくお)という男だった。
東大の第四内科というのは、ホルモンなどの内分泌系が専門の教授がもっていた科だった。そこに師事した西本はまったく別のアプローチからアルツハイマー病をとらえるようになる。
ホルモンの内分泌系では、細胞における信号伝達を重視する。西本もそこに着目した。
細胞膜から核への信号伝達は、80年代に興隆した研究分野だった。
Gタンパク質がとりわけ重要だった。というのは、この物質がアドレナリンの受容体やインスリンの受容体にもくっついてシグナルをだして、細胞内の情報伝達の役割をになっていたからだ。そのGタンパクが、AβがきりだされるAPPにもくっつくのではないかと考えたのが、アルツハイマー病の研究に入るきっかけだった。
Gタンパクは、細胞膜を7回貫通しているものにしかくっつかないとされていたものを、1回しか貫通していないAPPにもくっつくとしてネイチャーに論文を投稿、採用される。

「ヒューマニン」の発見?

しかし、まったくの別アプローチをとる西本に対する主流派の扱いは冷たかった。
西本自身も自分の仮説に固持するあまり、配下の研究員に、その仮説をそったような結果を出すよう圧をかけていたと証言する部下もいる。
「そうなるやろ、どうや、ほらなったやないか」。ということだ。
西本についてハーバードに行った同じ第四内科出身の岡本卓は後にそうした西本の資質について次のようなエピソードを私に語っている。
赴任したハーバード大学には、プレセニリン2を発見したルドルフ・タンジがいた。
「最初は、まったく別のアプローチで画期的な成果を出した研究者として西本に接していた。しかし、実験をしてみて、再現できないことがわかると、とたんに冷たくなった」
タンジらが問題にしたのは、西本がネイチャーに発表した1993年の論文だった。そして西本自身は、わずか4年でハーバードのポストを失い日本に戻ってくる。ポストを失ったのは、西本のやった研究の再現性がとれない、ということがハーバードないで攻撃されたからだと岡本は証言している。
東京大学に戻ることを希望したが、ハーバードでの噂が影響し、ポストを得られなかった。慶應義塾大学医学部の薬理学教室の教授に就任する。
落下傘で慶應におりたったわけで、苦労も多かった。
そのなかで、西本によくついていった千葉知宏(当時院生)によれば、論文を有力誌に投稿する際にも、かならずカバーレターに、「セルコーやタンジのところには行かないようにしてくれ」とわざわざ書いていたのだという。アルツハイマー病の研究だからといって、アミロイド・カスケード・セオリーを信じる主流派のデニス・セルコーやルドルフ・タンジには論文の査読をさせるな、ということを編集部に念おししているのである。
慶應大学で、西本は、アミロイド・カスケード・セオリーとはまったく別のアプローチでアルツハイマー特効薬をつくろうとした。
カスケード・セオリーにのった創薬は、その最初のドミノの1枚のアミロイド班をぬく、というものだ。しかし、アミロイド班は病気とは関係がないのではないか。アルツハイマー病の症状がでるのは、神経細胞が死んで脱落していくからだ。そこをとめればいい。
脳の中でも海馬や前頭葉といった場所でこの脱落は起きるが、後頭葉では起こらない。なぜだろう? それは、後頭葉神経細胞死をふせぐ何らかの物資があるからではないか?
この後頭葉から、24個のアミノ酸からなるタンパク質の物質を発見したとして「ヒューマニン」と名付け、2001年5月22日発行の米科学アカデミー紀要に発表した。
この「ヒューマニン」の発見は、日本のマスコミで大々的にとりあげられた。
同日の読売新聞は一面トップで
アルツハイマー病発症を防ぐ物質発見」
「原因遺伝子使用し実験 脳細胞壊れず」
「慶大教授らマウスで確認」
と報じた。
が、すぐに、この「ヒューマニン」という物質の遺伝子配列が、ありふれたミトコンドリアDNAと同じだという指摘が、他の科学者からでた。しかも、そのことをこの論文の主文に書かず付属データのひとつにさりげなく「人間のミトコンドリアDNAの遺伝子配列と99パーセント同じ」と記してあることも、必要以上に成果をフレームアップするための姑息な手段だと非難された。
このころ、東京大学の後輩で、薬学部の教授だった岩坪威(たけし)は、西本に「研究室に実験を見に来てほしい」と言われている。西本は研修医じだいの指導教官だった。
岩坪も医学部に残れず薬学部に出された研究者だったが、そこで、Aβ40と42のモノクロナール抗体を使って、Aβ42の病原性を立証するという画期的な仕事をし、押しも押されぬ若手のアルツハイマー病研究の旗手となっていた(後に井原康夫の研究室をついで大学院医学研究科の教授になる)。2002年当時、デール・シェンクも、「若手であれば岩坪」と太鼓判をおしていた気鋭の学者だ。
西本は、高校2年生の時に、父親を交通事故でなくした交通遺児だ。あしなが育英会奨学金で苦労して東大医学部を卒業して医者になった。その西本の猛烈な個性に、岩坪はひかれながらも、ヒューマニンの論文はオーバーステートメントではないかと考えていた。
が、岩坪は西本との友情にめんじて、慶應の西本の研究室をこのとき訪れている。
「ヒューマニン」で批判にさらされる西本にとって、岩坪が研究室で実験を見てくれたという事実が大事だった。

じじぃの「人間らしさ・血液循環説・機械論を唱えたデカルト!面白い雑学」

異種間の臓器移植


ブタの腎臓を人体に試験的に移植することに成功。異種間臓器移植実現に向けて一歩前進

2021年10月23日 カラパイア
世界初となる異種間の臓器移植実験が行われた。遺伝子改変したブタの腎臓を試験的に脳死した人体に移植したところ、拒絶反応もなく、すぐに正しく機能することが確認されたそうだ。
https://karapaia.com/archives/52307028.html

『面白くて眠れなくなる解剖学』

坂井建雄/著 PHP研究所 2022年発行

PartⅡ 解剖学の歴史――古代ローマの解剖学者 より

絶対的権威だったガレノス

古代の解剖学を語るとき、忘れてはならないのが古代ローマ時代に活躍したガレノスです。

ガレノスは、人体の解剖は行っていませんが、サルをはじめとした動物の解剖を行い、多くの著作を書き残しています。ガレノスはその後、1500年近くにわたって医師たちの君主として尊敬され、その著作は絶対的な権威として扱われたほどです。
   

PartⅡ 解剖学の歴史――「血液循環説」を唱えたイギリス人 より

ガレノス説を全面否定

心臓が血液を送るポンプであり、血液が全身を循環することは、今でこそ常識で誰でもが知っています。けれども、人体を自然のまま探求しようとしたヴェサリウスでさえも、血液循環に関してはガレノス説を信じて疑いませんでした。
このヴェサリウスの『ファブリカ』から85年が経って、ようやくイギリス人のハ―ヴィーによって「血液が循環する」という原理が確立されました。

ハ―ヴィーを支持したデカルト

ハ―ヴィーの血液循環説は、当時の医学者たちに衝撃を与えました。いうまでもありませんが、観察や実験による検証を重んじる医学者たちからは歓迎され受け入れられたものの、ヒポクラテスやガレノスなど千人たちが築いた伝統を重んじる医学者たちからは無視されたり、批判の的になりました。
特に、イギリスとネーデルランドに積極的な支持者が現れ、フランスには反対者が多かったとされています。そうした状況の中、フランスからネーデルランドに移ったデカルトは、ハ―ヴィーの理論を支持したのです。
デカルトというと、「我思う、ゆえに我あり」の名言で知られる自然哲学者であり、数学者です。彼の著作『人間論』は、人間の機能を機械的に説明した生理学の本ですが、内容の一部にはガレノス説が生き残っているのは明らかです。
動脈血の生成については、発酵によって心臓で血液化が促進すると考えるなど、苦しい理論ながらも科学的に説明をしようとした姿勢がうかがえます。しかし、脳の機能については精神が脳の中心にある松果体に宿ると考え、液体の微妙な流れによって松果体が動かされると説明しています。
当時は、アリストテレスの哲学が大学教育の基礎になっていましたが、それに代わって新しい機械論に基づく自然哲学を提唱しようと、デカルトは考えていたようです。これを推し進めるにあたって、ハ―ヴィーの血液循環論を好適な例として取り上げるなど利用していました。
これによって古代の権威の執着にとどめを刺すこととなって、生理学が発展していきました。

                  • -

どうでもいい、じじぃの日記。
ある女優(69歳)が今年の7月に、大腸ガンによる多臓器不全のために亡くなった。
彼女が出演した主な映画は『砂の器』、『球形の荒野』、『犬神家の一族』、『黄金の犬』である。
彼女は、医師から人工肛門をつけるよう勧められたが拒否したそうである。
人工肛門ストーマ)は、手術によっておなかに新しく作られた、便や尿の排泄の出口のことを言う。
膀胱の例で言うと、
膀胱の形状は風船に似ている。
医学が進んだ今日、体の外に袋を取り付けるのではなく、膀胱を風船のようなものに置き換えることができないのだろうか?
私が、医師から人工肛門をつけるように言われたら、どうしようか。
トホホのホ。

じじぃの「科学・地球_436_アルツハイマー征服・バピネツマブ崩れ」

Rae Lyn Conrad, high school graduation


【著者インタビュー】編集長も三度泣いた! 下山進アルツハイマー征服』

2021年03月25日 Hanadaプラス
――もう一つ泣いたのは、ワクチンの開発に参加していた科学者ラエ・リン・バークがアルツハイマー病になってしまう話。まさか、ワクチン開発をしていた科学者自身が発症してしまうとは。夫のレジス・ケリーが健気に看病をずっとしていて、偉いんですよね。
下山 昨年4月にアメリカに2週間行って詰めの取材をする予定だったんですけど、そのうちアメリカでも新型コロナ感染が拡大して、結局Zoomでの取材になって、その時にレジスにも話を聞きました。
ラエ・リンは夜中にしょっちゅう起きるので、その対応をするから寝られない。施設に入れることにしたけど、いい施設は年間12万ドルもかかる。家を売って費用の足しにして、仕事も続ける。自分は施設の近くに住む息子の家の地下室に住んでいて、Zoomで室内を少し見せてもらいましたが、本当に少ししか光が差さない地下室なんですよ。
――ラエ・リンは「Can I help you?」(何か困っていることはない?)が口癖だった。病気が進んでもう会話もままならなくなったのに、施設内で人に会うと必ず、「Can I help you?」」と尋ねる。この話も泣けました。
下山 たとえ病気になってもその人の本質は変わらないんだ、ということがわかるエピソードですよね。
https://hanada-plus.jp/articles/651?page=2

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第14章 バピネツマブ より

  1ミリグラムまで投与量をさげられたバピネツマブ(ベータアミロイドを標的とするアルツハイマー病治療薬)のフェーズ3。リサ・マッコンローグは投与量がこんなに低くては効かないのではと不安になる。親友のラエ・リンは治験に入る。

ラエ・リン(AN1792の開発に参加した。彼女は簡単な数学問題をドライブ中に頭の中で解くことが趣味だった。通勤ドライブのさなか、それができなくなっていることに気づく)は、2008年8月までSRIインターナショナルに勤めたが、職場でアルツハイマー病のことを明らかにしたのは、退職のパーティーの時のことだった。
ラエ・リンにとっては、科学と離れることは何よりも辛いことだった。夫はUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)で研究を続けている。自分だけが家にいなくてはならない。
ラエ・リンは、こうしたなかで新しい生きがいをみつけようともがく。
週に一度、アルツハイマー病の患者の集いに出てみることにした。
そこで行われているのは、写真をとることだったり、陶芸をすることだったりした。動物愛護協会での簡単なボランティアというのもあった。
ラエ・リンはそうした画一的なアルツハイマー病患者の扱いに腹がたった。
ある日のミーティングで堪えきれにこう発言する。
「これは間違っている。私たちは闘士にならなければならない。戦わなくてはならない。自分は研究者としてHIVのワクチンについて研究していた時に、患者の団体とも接した。彼らは戦って、自分たちの病気についてもっと積極的な治療をするよう要求をして、その地位を勝ち取った。我々は自分たちの病気について、もっと人々の理解を得るよう努力しなくてはならない」
ラエ・リンは、様々なところに出かけて積極的に講演をし、自らの病気のことを誇るようになる。
自分が開発を手伝ったアルツハイマー病の根本治療薬の第2世代の治験に入っていることも、積極的に明らかにした。
そうした姿は、後につくられた映画『アリスのままで』のモデルともなった。

こんなに低くて効くのだろうか?

UCSF時代からの親友であるリサ・マッコンローグは、ラエ・リンが科学のことになると、ほとんど病気を意識できないクリアな思考を展開することに驚愕した。
が、奇妙なことに日常のちょっとしたことができないのだ。
レストランでリサが、自分のキャリアについて相談をすると、的確このうえないアドバイスをする。が、勘定を支払うというだんになって、そもそもその支払い方がわからない、といった具合だ。
    ・
治験は、2012年6月まで続く長いものになった。
コードブレイクの行なわれる2012年7月。
エラン社はあとのない状況になっていた。
株価はあいかわらず低く、株主の不満は高まっていた。メルル・リンチからきたCEOのケリー・マーチンはプライベートジェットで西海岸と東海岸を行き来していたが、これが無駄づかいだとして非難された。
しかし、まだバピネツマブがあった。
エラン社にとって、デールたちにとって、ファイザージョンソン・エンド・ジョンソンの治験の結果は、自分たちの将来を決するものだった。
新聞は、「エラン社は宝くじのチケットをまだ持っている」とはやした。

もう自分はアルツハイマー病の研究は続けられないかもしれない

ベイエリアにあるデール・シェンクの家は平屋だ。
2人目の妻リズ・シェンクと1998年6月に結婚、息子が2人いた。1階のリビングには、グランドピアノとチェスボードがある。
シェンクの日常は決まっていた。朝5時半に起きたあと、コーヒーを1杯飲む。そのあとリビングにあるチェスボードで1人チェスをする。チェスが一段落したところでラボに向かう。夕方帰ってくると2人の息子がまとわりついてくる。その日何があったかを、2人がいきせききって話すのにニコニコしながら耳を傾ける。夕食の時間までに、ピアノを弾くこともある。
2012年7月23日のその日も夫は、普段どおりの時間に帰ってきた。子ども2人がまとわりつく。が、デールのその顔がいつもと違っていた。激しく落ち込んでいるように見えた。
リズは、子どもたちを制して、夫に「ワインをもってこようか」と言った。
リビングに夫をつれていき、ワイングラスをだしてワインを注ぎ、「どうしたの」と話を聞いた。
この日、ファイザーが、治験の結果を発表していた。評価はまだ発表されていなかったが、治験にかせられていた目標をどれも達しておらず、効果はない、という結果だった。
代表的な治験サイトのひとつだったブリガム・アンド・ウィメンズ病院のレイサ・スパーリングはニューヨーク・タイムズの主題にこたえてその結果をこのように表現していた。
「治験にあらかじめ設定された目標は達成できず、認知機能に対する効果も、身体的な効果もどのような治療効果もなかった」
どのような治療効果もなかった!
夫はどんなときでもほがらかで楽天的だった。
知り合ったのは、自分が日本から帰ってきた97年のことだった。3月にマインドフルネスのサークルで出会ったが、このとき、自分は夫が、どこかの金持ちの家系でその遺産で暮らしているボンボンかと思っていた。ポルシェをのりまわし、いつでも自分をデートに誘ってくれる。それが、あるパーティーで初めてアルツハイマー病の研究者だということを知った。
    ・
いつだって夫は、確固とした信念と自信をもって仕事をしていた。ところが、その日は違ったのだった。夫がこのような辛い表情をしているのを見たことはない。
デール・シェンクは、自分が職業人生のすべてをかけてとりくんできた薬が駄目になったことを、その夜、妻に語ったのだった。
「自分はこの薬の開発に12年かけてきた。ワクチン療法の開発から数えれば20年ちかく、この病気の根本治療開発にとりくんできた」
バピネツマブは、エラン社の最後の希望だ。この薬が駄目だということになれば、もうエラン社での仕事は続けられないだろう。それどころか、と暗い顔でこういったのだった。
「もうアルツハイマー病の治療薬にかかわることはできないかもしれない。研究者たちの将来も心配だ」

全開発部門を閉鎖

バピネツマブの開発が中止になって1週間後のことだ。リサ・マッコンローグが、エレベーターに駆け込むと、デール・シェンクがいた。マッコンローグはそのときオックスフォード大学とあるプロジェクトをしていたが、そのけんでの相談ということで、デールは話しかけた。サイエンスのことになるとデールの顔は輝く。エレベーターをおりてしばらく話をした。バピネツマブの開発中止のニュースにデールはまいっているかと思ったが、すっきりとしているようで安心をした。
しかし、後から考えると、デールはすでに翌日の報せを知っていたのだ。
明るく対応してくれたそのときのデータの心境を思うと、リサは今でもたまらなくなる。
翌日、CEOのケリー・マーチンがニューヨークからプライベートジェットでベイエリアにある開発部門にやってきた。
全研究員が、開発部門のあるビルの1階の大きなホールに集められた。らせん状の階段があり、アルツハイマー病の患者の描いたモダンアートが飾られている豪奢なスペースだった。
そこでケリー・マーチンは全研究員にこう告げたのだった。
「たいへん残念なことだが、サンフランシスコにある開発拠点は全て閉じることになった」
バピネツマブの失敗でこれ以上、ここをかかえていけないこと、研究施設もビルもすべて売却するということが話された。
200人以上いる研究者でそのことを予想した研究員はいなかった。研究施設を閉じるということは、自分たちも人員整理の対象になるということを意味していた。
リサも、ドラも、ピーターもそのCEOの宣告を唖然と聞いていた。
私たちは明日からどうすればいいの?
このようにして、アセナ・ニューロサイエンスの創立の1987年以来、ずっと続いてきた「科学者の楽園」は終わりをつげたのである。

じじぃの「人間らしさ・古代ローマの解剖学者・尿管の切開!面白い雑学」

排尿障害


高齢者に対する排尿管理・ケアの実際

2021年2月12日 健康長寿ネット
排尿障害は、泌尿器科疾患以外でも発生する。また、不適切な排尿管理・ケアはQOLを低下させるだけでなく、生命予後にも影響すると考えられる。
前述の排尿サークルにあるように、さまざまな動作、場面での介入が必要であるため、多職種での連携・介入も欠かせない。個々の患者に応じた適切な排尿管理・ケアが必要である。
https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/koreisha-hinyokishikkan/koreisha-hainyokanri-kea.html

『面白くて眠れなくなる解剖学』

坂井建雄/著 PHP研究所 2022年発行

PartⅡ 解剖学の歴史――古代ローマの解剖学者 より

絶対的権威だったガレノス

古代の解剖学を語るとき、忘れてはならないのが古代ローマ時代に活躍したガレノスです。

ガレノスは、人体の解剖は行っていませんが、サルをはじめとした動物の解剖を行い、多くの著作を書き残しています。ガレノスはその後、1500年近くにわたって医師たちの君主として尊敬され、その著作は絶対的な権威として扱われたほどです。
彼の著作である『自然の機能について』には、当時の解剖の様子が描かれていますので、その一部を紹介しましょう。

  「まず尿管の前面にある腹膜を切開し、次に結紮(けっさつ)によって尿管を(膀胱から)遮断し、それから次に動物を包帯で縛り付けたうえで放すようにすべきである――そうすれば、もう放尿することはないだろうからである。その後で、外側の包帯を解いて、膀胱は空であるが尿管は尿で十分満たされて拡張し、流れ出しそうになっているのを見せ、その後、結紮を取り除くと、たちまち膀胱が尿で一杯になるのが明白に見てとれることになる。(中略)
   それからもう一度、まず尿で一杯になっているほうの尿管を切開して、そこから尿がちょうど瀉血(しゃけつ)に際しての血液のように噴出するすることを示し、その後、他方の尿管をも切開し、両方の尿管がともに切開された状態で、動物を外側から包帯し、これで十分(時間が経った)と思われるときに包帯を解くのである。すると、膀胱はは空になっているが、ちょうど腹膜の間の領域がすべて、まるでその動物が水腫にかかっているかのように、尿で一杯になっているのが見てとれるだろう」
                ガレノス著、種山恭子訳『自然の機能について』

このように、ガレノスが生きた動物の泌尿器を解剖していることがうかがえます。しかも、尿管を一時的に縛って閉鎖した後に解放し、さらに切開するという手順を踏んでいることから、膀胱が尿を溜めておく器官であることや、その尿が腎臓から送られてくることを実験で証明したのです。
これによって、動物の解剖を行うことで構造を観察するだけでなく、器官の機能を明らかにしようとしていた姿勢がうかかえます。
このほか、動脈や静脈、神経、筋肉が正確に描かれており、筋肉に至っては手足のすみずみまで何という筋肉なのかが私たちにも同定できるくらいです。この正確さが、後の医者たちにも影響を与え、長く尊敬されることとなったのです。

                  • -

どうでもいい、じじぃの日記。
夜中にトイレに行っても、おしっこがあまり出ない。
たぶん、膀胱にはおしっこがあまりないのに変なセンサーが働くからなのだろう。
「排尿障害」といっても、いろんなケースがあるようだ。
認知症だったら、センサーが鈍いので夜中に起きることは少ないはずだ。
まあ、まだ立派な、認知症にまでいっていないということか。
トホホのホ。

じじぃの「科学・地球_435_アルツハイマー征服・ワクチンAN1792」

Amyloid beta protein dynamics

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O-OPrYgQD0I

Proposed targets of anti-amyloid-β (Aβ) drugs used in active and...


Proposed targets of anti-amyloid-β (Aβ) drugs used in active and...

Download Scientific Diagram
Examples include AN1792 (the first ever AD vaccine) and Bapineuzumab, both clinical trials which were halted due to adverse effects (such as microhaemorrhages, meningoencephalitis and increased vascular Aβ deposition), or not achieving the desired clinical targets . Currently, five passive immunization clinical trials are ongoing : ...
https://www.researchgate.net/figure/Proposed-targets-of-anti-amyloid-b-Ab-drugs-used-in-active-and-passive-immunization_fig1_347848120

ワクチン・アジュバント

医学用語解説 より
ワクチンの免疫原性を高める目的で抗原とともに投与される物質または因子の総称。
ワクチンによる獲得免疫の活性化には、抗原の曝露のみでは不十分であり、局所におけるサイトカインバランスの調整や抗原提示細胞を成熟化する自然免疫が同時に活性化されることが重要であると考えられている。
アジュバントは、抗原の免疫系への送達機能や自然免疫応答を活性化する機能を有し、ワクチンとともに投与することで獲得免疫応答を活性化する。抗原の送達機能を持つアジュバントには、アルミニウム塩、水-油系エマルジョン、リポソームなどがある。また、微生物の構成成分に由来する物質は自然免疫を誘導することがよく知られており、アジュバントとして開発応用されている。

                  • -

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第10章 AN1792 より

  根本治療薬の期待を背負って「AN1792」の治験が始まる。フェーズ1を無事通過したあと米国と欧州で実施されたフェーズ2の治験で、だが、急性髄膜脳炎の副作用がでる。

デール・シェンクらエランのチームが苦労したのは、このアジュバントをどう作るか誰もわからなかったことだ。
マウスの場合はまだいい。しかし、人間にAβ42を投与する際のアジュバントは、安全にしかも確実に免疫反応をおこし、抗体をつくりだせるものでなくてはならない。それはアーチ(芸術)といってもいいほどの難しさだった。
アセナ・ニューロサイエンス時代からの研究者で、ワクチンの専門家は誰一人としていなかった。
デール・シェンクやピーター・スーベルトが頭をかかえているのを見て、リサ・マッコンローグはある人物のことを思い出していた。
「私にこころあたりがある」

科学の殿堂UCSF

UCSFと称されるカリフォルニア大学サンフランシスコ校は、州立大学であるが、医学の分野で名高い。ベイエリアと呼ばれるサンフランシスコが、80年代、90年代、医療ベンチャーの集積地となっていった背景には、カリフォルニア大学サンフランシスコ校という豊かな後背地があった。
リサ・マッコンローグは、博士号を分子生物学に関する研究でとったあと、このUCSFで、遺伝子工学について研究をしていた。
1984年のことである。
しかし、リサは象牙の塔での研究に限界を感じていた。あまりにもスピードが遅すぎる。ポストの空きがなければ、次の段階に進んでいけない。
リサにとって、ベイエリアで生まれ始めた医療系のベンチャー企業は魅力的な職場に思えた。しかし、当時のUCSFでは、アカデミアからでて、産業科学者になるものは、”科学者として認めない”という風潮がまだまだあった。
悩んだリサは、ラエ・リン・バーグに連絡をとる。この涼やかな眼をした女性は、UCSFでポスドク期を共に過ごした仲だった。リサは学生時代、ひっこみじあんだったために、ラエ・リンとはほとんど話したことがなかったが、医療ベンチャーですでに働いていた彼女に電話をし、ランチをとることになる。先にカイロンという医療ベンチャーで働いていた彼女に会って話を聞いたのだ。
カイロンはUCSFをバイオテクノロジーで有名にしたビル・ラターが1981年に設立した会社だった。カイロンは、B型肝炎のワクチンの開発に成功することになるが、飛ぶ鳥を落とす勢いがあった。
「今、医療ベンチャーにはフロンティアがある」
ラエ・リンはそう言って大学ではない、新しい分野で働いてみることをリサ・マッコンローグに勧めた。
このことがきっかけになって、リサは大学を辞め、セタスという別の医療ベンチャーで研究してのキャリアをスタートさせた。セタスで5年勤めたあと、アセナ・ニューロサイエンスに草創期のメンバーとして参加する。面接したのは、デール・シェンクである。
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デール・シェンクとピーター・スーベルトに紹介するとただちに面接が行われた。ラエ・リンはエラン社とコンサルティング契約を結び、デール・シェンクらのワクチンを手伝うことになる。
ラエ・リンの参加で、プロジェクトは一気に進んだ。アジュバントには、QS-21というチリ原産の石鹸樹脂から抽出精製したものが選ばれる。
このようにして、最初のアルツハイマー病のワクチンAN1792は誕生したのである。
ANはシェンクらの原点アセナ・ニューロサイエンスからとった。
エラン社は治験を申請し、米国と英国の100人の患者に、アミロイドβを注射する臨床第一相が開始される。

フェーズ2

ロジャー・ニッチはドイツのハイデルベルクの大学を卒業したあと、ハーバード・メディカルスクールで神経学を学び、MITでポスドク期を過ごしたあと、98年からスイスのチューリヒ大学で分子精神医学の教授になっていた、専門はアルツハイマー病だ。
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クリストファー・ホックは医者だ。すぐに議論は、チューリヒ大学のこの病院で、このワクチンの治験を行うことができないか、という話になった。ニッチは、米国にいるデール・シェンクに連絡をし、エラン社が始めようとしているこのワクチンの治験に参加できないかと打診した。大学の付属病院は治験のサイトのひとつになることができる。
臨床第一相(フェーズ1)を通過したエラン社は、治験の範囲を欧州まで広げるフェーズ2を始めようとしていた。
ニッチとホックはモナコモンテネグロで開かれるエラン社が行う治験のための会議に参加することになった。モナコの隣国のフランスは、AN1792のフェーズ2治験の欧州での拠点となっていた。
2001年10月から始まったAN1792のフェーズ2治験に参加した患者の総数は、375名。米国と欧州で、軽症から中程度のアルツハイマー病と診断された患者が、15ヵ月にわたり、AN1792とプラセボの投与をうけることになっていた。375名のうちAN1792の投与をうけるのが300人、生理食塩水つまりプラセボを投与されるものが75人。投与の時期は、1、3、6、9、12の各月に行われる。
このワクチンはアルツハイマー病の病気の進行を逆にできるかもしれない。
ジャーナリズムやウォール・ストリートも固唾を飲んでこの治験の進行を見守った。エラン社の株価は、治験の始まった2001年10月には、40ドルにまで達する。
ニッチとホックの勤めるチューリヒ大学の付属病院では、30名の患者がこの治験に参加することになる。
最初のAN1792がその30人の患者の腕に筋肉注射された。

追跡調査

チューリヒ大学のロジャー・ニッチとクリストファー・ホックは、急性髄膜脳炎ステロイド投与などでおさえ込んだあと、AN1792を投与した30人の患者の追跡調査することを決めた。
ニッチ、失敗した治験こそが多くのことを教えてくれるのだと、いつも考えていた。AN1792の治験が中止されたことは残念だ。しかし、ここであきらめるのではなくこの患者のその後の推移を追いかけてみよう。
30人の患者は、2度AN1792の投与をうけていた。その後治験は中止されたが、1年にわたって経過が観察されたのである。
まず、血漿を定期的によって、AN1792によってたしかにAβ42に対する抗体ができたかを各患者について調べた。
30人のうち20人が抗体を生じていたが、面白いことに、抗体を生じなかった残りの10人の中に、急性髄膜脳炎を発症した患者がいたのである。
これは何を意味するのだろうか? つまりワクチンによって生じた抗体が原因で農園が起こったのではない、ということだ。
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すでもこのとき、シェンクやピーター・スーベルト、どラ・ゲームズらのチームは、「第2世代」の薬について開発を急ピッチに進めていた。
ワクチンが副作用をおこすのであれば、抗体そのものを投与すればいい。シェンクらはアルツハイマー病のトランスジェニック・マウスPDAPPマウス、つまり「聖杯」を持っていた、実はAN1792の開発と並行し、この「聖杯」を利用して、シェンクらは30~40種類もの抗体を作り出していた。シェンクもスーベルトももともと「モノクロナール抗体」の専門家だから、ある物質に対する抗体をつくることにかけては専門家だった。
特に有力な抗体として「3D6」と「266」と呼ばれる抗体があった。
「3D6」という抗体は、Aβのアミノ末端部分を認識する抗体で、結果的に凝集したアミロイドによく結合した。「266」という抗体は、Aβの真ん中あたりを認識する抗体だった。
マウスから作られたこれらの抗体をヒトにも使えるように「ヒト化」する。
ワクチン療法から始まった根本治療薬は、抗体という「第2世代」に移行するのだ。
「266」は、アセナ・ニューロサイエンスがエランに買収される際に、イーライリリーにその権利を売ることになる。シェンクらは自らがもっとも有力と考える「3D6」を持ってエランに買収されたのだった。
AN1792の失敗のあと、われわれはこの「3D6」をヒト化した抗体薬で勝負をかける。
その薬はバピネツマブ(bapineuzumab)と名付けられる。
最初のバピ(bap)はBeta-Amyloid Peptideからとり、最後のマブ(mab)は「Monoclonal Anti Body」つまりポリクローナル抗体の略である。

AN1792に参加した1人の患者が治験参加後、肺炎をおこして死亡した。
剖検を行い脳を見ると、アルツハイマー病の症状のひとつであるアミロイド班はきれいに消失しつつあった、のである。

じじぃの「人間らしさ・石器時代・足の切断手術が成功裏に行われていた?面白い雑学」

Earliest-known surgical limb amputation found in stone-age skeleton | ABC News

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LHz7J5BNrTo

The skeleton of a young adult found in Borneo, Indonesia


3万1000年前に足切断手術 インドネシアで発見の人骨に痕跡

2022.9.8 Yahoo!ニュース
インドネシアカリマンタン(Kalimantan、別名ボルネオ、Borneo)島で発見された人骨から、約3万1000年前に足の切断手術が成功裏に行われていたことが明らかになったとする論文が7日、豪グリフィス大学(Griffith University)などの研究チームにより英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5a937d96a6ebbe7fda4c0769313006ae1d3e47a

『面白くて眠れなくなる解剖学』

坂井建雄/著 PHP研究所 2022年発行

PartⅡ 解剖学の歴史――古代文明のあるところに医学あり より

古代の外科手術

文字の誕生は、歴史を残すうえでも大きな役割を果たしています。過去に何があったのかを記録することで、後の人々がそれを検証することができるからです。記録に残っている医療となると、やはり四大文明の時代ではないでしょうか。
メソポタミアでは紀元前1100年頃の粘土板に、楔形文字で書かれた医療の記録が残されており、これは最古の医学書といわれています。また、粘土でつくられた肝臓の模型も見つかっています。医学書では、僧侶である魔術師が占星術を基に呪文を唱え、怒れる神の許しを乞い、病人にとりついた悪霊を追い払う儀式を行ってから、薬を使ったり、手術にあたると記されています。薬は悪霊が逃げ出すように動物の糞(ふん)などを用い、植物・動物・鉱物薬の記録があります。
ハンムラビ法典』(紀元前18世紀頃)には、外科医の手術に対する報酬についても書かれており、手術を行って患者が死んだり、目を手術して盲目になったときは、医者の手を切り落としても良いという恐ろしい内容です。
エジプトでは、紀元前15世紀に遡るパピロス文書に、医療についての記録についての記録が象形文字で残されており、すでに人体解剖も行われていました。しかし、宗教と医療が一体化し、医師は医神に仕える神官でファラオ(王)の侍医でした。病気は悪魔の仕業ですから、神官だけが医療することができました。
多数の症状とそれらの治療法が記載されており、数にすると800種の薬の処方、700種の植物・動物・鉱物薬に及びます。病魔の追い出しが最優先にされ、吐剤・下剤・浣腸の処方が多いものの、眼科、婦人科、頭髪の手当、膿瘍(のうよう)や腫れ物の処置まで幅広く記されています。これらの治療法は公的に決められており、これに従って治療を行っていれば、患者が亡くなっても責任を問われることはありませんが、勝手な方法で治療を行って効果がないときは死刑にされることもあったようです。それほど当時の医者の身分が低かったということです。
古代インドでは、紀元前1500年頃から伝承され、紀元前500年頃以前に編纂された、インド最古の宗教文献『ヴェーダ』に医療の記録があります。
そして現存する中国最古の医学書である『皇帝内経(こうていだいけい)』(漢代に由来する)は、紀元前2000年頃に遡るとされています。3皇5帝の1人である神農が百草を舐め、薬の根本を教えました。

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どうでもいい、じじぃの日記。
棺桶に片足を入れながら、生きている。
死ぬ前に行って見たかった場所にエジプトのピラミッドがある。
約4500年前、146mの高さを誇るクフ王の大ピラミッドが完成した。
これを現場で指揮したのは神官といわれるが、彼らは現代でも立派な建築士だろうと思われる。
一説には、人間は約100万年前から脳の大きさは現代人と変わっていないのだという。
しかし、100万年~5万年前 彼らの精神状態はどうだったのだろうか。
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、
かつて地球上に生息していたマンモスなどの大型動物を絶滅させたのはホモ・サピエンス(現生人類)だという。
ネアンデルタール人を絶滅させたのもホモ・サピエンスだという。
一方で、数万年前の古代遺跡から、歯のほとんどない遺骨や、片足のない遺骨が見つかった。
獲物を捕れなくなった老人の世話をしたとか、足を怪我した青年の足を切断手術し周りの人たちが介護したという説がある。
我々の先祖は、果たして心優しい人たちだったのか、凶暴な人たちだったのか。

じじぃの「科学・地球_434_アルツハイマー征服・ワクチン療法の発見」

Developing Meaningful Therapeutic Strategies for Alzheimer’s and Parkinson’s Diseases - Dale Schenk

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1mxsEMXXrj4

Dale Schenk at the Siemans Foundation


Dale Schenk, 59, Pioneer of Alzheimer’s Immunotherapy

03 Oct 2016 ALZFORUM
Dale Schenk, a leader in the field of Alzheimer’s disease immunotherapy passed away Friday, September 30, after a battle with pancreatic cancer that started in 2014. Schenk had been working until recently. He was 59.
https://www.alzforum.org/news/community-news/dale-schenk-59-pioneer-alzheimers-immunotherapy

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第9章 ワクチン療法の発見 より

  グラスの中に浮かぶ氷を見たことから、アセナ・ニューロサイエンスの天才科学者はとてつもないアイデアを思いつく。アルツハイマー病はワクチン接種によって治せるのではないか?

90年代の遺伝子工学による相次ぐアルツハイマー病遺伝子の発見、それによるトランスジェニック・マウスの開発によって、アルツハイマー病は治癒できる病気になるのではないか、という期待が高まっていた。
このころまでに、アルツハイマー病がなぜ起こるのか? という病理の理論として「アミロイド・カスケード・セオリー」が有力な仮説として科学者の間で共有されるようになってきた。
カスケードというのは、つらなかった小さな滝である。ドミノ倒しのようなものと思ってもらってもよい。最初のドミノの1枚をアミロイドβにもとめたのである。
すなわち細胞膜にあるAPP(アミロイド前駆物質)をγセクレターゼ、βセクレターゼなづけられた酵素がβ、γの順にカットしていく。これはどんな健康な人間でもおこっている。ところが、APPをつくる遺伝子に突然変異があると(これがジョン・ハーディーが発見した最初のアルツハイマー病遺伝子だ)、APPをカットする位置がかわってきてアミロイドβ42という分子量の多いものが多く切り出されるようになる。この分子量の多いアミロイドβ42は集まって凝縮しやすく、それが老人斑となって毒性を持つ。この老人斑が増えてくると、神経細胞が打撃をうけて、神経原線維変化(PHF)という糸くず状のものを神経細胞の中に生むようになる。神経原線維変化(PHF)が現れるとやがて神経細胞は死ぬ。こうした変化が10年から15年の月日で起こる。
カスケードのように、最初のAPPの切り出しから始まって、最後の神経細胞の死にいたるまでの変化が10年から15年の時間をかけてゆっくりと進んでいく。
アリセプトは、神経細胞が死に始めて症状が出てきた段階で処方をすれば、残っている神経細胞の電気活性を高めて、信号をつながりやすくする。それによって症状の進行を8ヵ月から2年止めることができる、というものだ。
しかし、これは根本治療ではない。神経細胞の死にいたるカスケードは止められていないからやがて病気は進行していく。
もしこの「アミロイド・カスケード・セオリー」が本当だとするなたば、このドミノ倒しのどこかのドミノをぬいてしまえば、病気は進行しないことになる。たとえばAPPをγセレクタガーゼとβセレクタ―ゼがカットしているというのなら、それをカットしないようブロックする方法はないか。ちなみに見つかったアルツハイマー病遺伝子のプレセニリン1とプレセニリン2は、γセクレターゼをコードする遺伝子であるという疑いは非常に濃くなっていた。これが創薬の方法である。
この「アミロイド・カスケード・セオリー」の最初のドミノの1枚を抜いてしまうことはできないか? そう考えた科学者がいた。それが、アセナ・ニューロサイエンスのリードサイエンティスト、デール・シェンクだった。ハーバード大学のデニス・セルコーが会社を設立する際、2番目にリクルートしたチェス好きの科学者である。
デール・シェンクが抜こうとしたドミノは、アミロイドβ42そのものだ。が、他の科学者がやっていたように、γセクレターゼ、βセクレターゼをブロックすることによってではない。これを抗原抗体反応によって除去できないか、と考えたのだ。

好奇心を抑えられない

シェンクはアイデアの人だ。次から次への新しいアイデアが湧いてくる。それを大きめのポストイットに書き留めるホワイトボードに残しておくのはピーター・スーベルトの役目だった。このマウスに対する予防注射というアイデアも、ピーターによってさっそくポストイットに書き留められている。
好奇心を抑えきれない性格は科学者に向いていた。ドラ・ゲームス(トランスジェニック・マウス開発の端緒をつくった女性)は、京都で行なわれた学会に出席するために、デール・シェンクと日本に行った時のことを今でも思い出す。
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1957年5月にカリフォルニアの中流の住宅街パサディナで生まれた。父親は消防士、母親はロサンゼルスの新聞社の記者だった。8歳のころからシェンクが始めたことが2つある。ピアノとチェスだ。
それでも科学者の道に進んだのは、学齢期になると、数学と科学の授業が自分にとっては、いつも1番簡単だったからだ。宿題もあっという間に片づけてしまう。次は何なのか? その次は? こうしているうちに科学を生業とすることが自分の天職だということに気がつき、12歳のころには、その道に進むことを決めた。
医者よりもより多くの人を救う可能性のある研究者の道に惹かれた。カリフォルニア大学サンディエゴ校で薬剤と生理学の博士号をとる。生理学の博士号をとっているさなかに、モノクロナール抗体をつかった実験をするようになる。これが後の「ワクチン療法」の発想へとつながってくるわけである。
心臓に関する医療ベンチャーの会社につとめて2年半で、ハーバード大学のデニス・セルコーに見いだされ、アセナ・ニューロサイエンスに1987年に参加することになったことはすでに述べた。

老人斑が消えた!

マウスを管理するのはドラ・ゲームスの役割だ。12匹のマウスにアジュバントという免疫反応を誘発する物質を付け加えたアミロイドβを1月に1回ずつ、11回、マウスに注射をしていく実験は、97年の年初から始まった。
アミロイドβは人間のアミロイドβ42だ。
ドラ・ゲームスは、この実験について懐疑的だった。デール・シェンクもまさか成功するとは思っていなかっただろう、と私のインタビューに答えている。
そして1年がたって、マウスを解剖し、その脳切片を顕微鏡で見る時がきた。
デール・シェンクは、ドラ・ゲームスが脳切片の顕微鏡を覗くその現場に立ち会っている。
ゲームスは、切片を用意しながら、不思議な気持ちになっていた。トランスジェニック・マウスを開発した時にサンディエゴのレーザー顕微鏡でマウスの脳切片を見た時は、どうか、老人斑が見えますように、と祈りながら顕微鏡を覗いたのだった。しかし、今日は逆だ。
老人斑が見えないことが、よいことなのだ。
シェンクはそわそわと落ち着かず、自分の周りをうろうろと歩いている。ゲームスはそれほど期待をせずに、顕微鏡を覗いてみた。このマウスは1年もたてば、老人斑ができ神経細胞はダメージをうけ脱落をしている。

ない。老人斑がない。きれいな脳細胞だ。が、ゲームスは、すぐには声に出さず、対照群となったアミロイドβの注射をしなかったマウスの脳の切片をつぎに覗いてみた。ここにははっきりと老人斑がみられ、脳に変化が起きていることがわかった。
これを確認して初めてゲームスはシェンクに言った。
「消えてる。老人斑がきれいに消えているわ」
シェンクは、「おおおお」と叫んだ。
アミロイドβのワクチンは効いているのだ。
12匹のうちコントロール群は3匹、残りの9匹がアミロイドβの注射をうけたが、このうち7匹は、1年たっても老人斑も神経変性も見られなかった。

アリセプトは過去の薬になる

中枢神経系の障害であるジストニアへの薬の開発で、エーザイとの仕事も始めたエランのデール・シェンクは2002年7月に日本に来た際に、エーザイ創薬第一研究所の所長になっていた杉本八郎と会食している。
アリセプトは日本でも99年に承認され、世界中のアルツハイマー病患者を救うようになっていた。進行を一定期間止めるだけだとはいえ、その8ヵ月から2年の月日が患者と患者の家族にとってはとてつもない意味を持っていたのだ。
私はシェンクが東京で杉本と会食した翌日にシェンクと朝食をともにしている。
シェンクは、物静かだが、威厳のある杉本に惹かれていた。しんの強さがある人物だと言っていた。私が杉本八郎は、高卒でエーザイに入り、夜学で学士をとり、人事部に飛ばされても、こつこつと論文を書いて博士になったのだ、と言うと、心を動かされたようで「そうか、だからなのか、彼の大きさはそうしたところから来るのか」と納得したようにひとりごちだ。
だが、とシェンクは私に言った。「そうした偉大な仕事をした人に失礼かと思ったが」と前置いて、こんなことを杉本に言ったと披露したものだった。
「杉本さん、私たちのワクチン療法はいずれ、アリセプトを過去の薬にするでしょう」