じじぃの「土俗と普遍・日本人らしい科学・世田谷文学?逆立ち日本論」

Two Black Holes Collided And Proved Einstein's Theory

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kOmkGemGiB0

Black hole pictures proves Einstein

『逆立ち日本論』

養老孟司内田樹/著 新潮社 2007年発行

土俗と普遍 より

養老 批評で面白いことを思い出したのですが、ある女性の小説家が、村上春樹の小説を土俗性がないと批評したのです。美空ひばりみたいなのがないと。それがとても印象的でした。
内田 そういう村上春樹批判はよくありますよ。「日本の文学はそんなに無機質でドライなものじゃなくて、もっとどろどろねばねばしたもののはずだ」という言い方で土俗性の欠如を批判していました。でも、それはその人の文学観にすぎない。土俗性信仰というイデオロギーでしょう。
養老 その小説には、「土俗性がないから売れているのでしょう」といいました。そうしたら売れているものは全部だめということになってしまう。
内田 「英語に訳されて、インド人の大学院生が読んでも違和感がないと言っていた。これを日本文学といえるだろうか」と書いていた批評家がいましたね。「インド人の大学院生が読んでも違和感がない」なら「さすが世界文学だ」というべきでしょう。「目黒区民が読んでも違和感がないといわれ、それで世田谷文学といえるだろうか」といっているのと変わらない。地域性が希薄であることがどうして否定的に評価されるのか、ぼくにはぜんぜん理解できないですね。
養老 ぼくが最近言っている「科学者の独創性」というのと同じですね。アインシュタインが最初の論文を書いて100年たちます。あれをいま読むと「この人はもっともなことを書いているな」と思います。それを日本人はなんていうかというと、「独創的云々」と評価する。でも、あれは独創的じゃないのですよ。普遍的で当たり前のことを書いているからこそ、100年後にぼくが読んでも「もっともだ」と思うわけです。 要するに「科学の普遍性」の問題なのです。多くの人が納得するような内容だからこそ後世に残る様な研究になったわけです。日本人の島国根性というとよくありませんが、「普遍性に対するローカル性」を感じます。
内田 科学の分野で地域性なんか何の意味もない。「日本人らしい科学」なんて誰もめざしていない。原理的には世界中どこもが全部「田舎」であって、みんなどうやってその田舎の地域性を抜け出して普遍性にたどりつこうと探求しているのに、ロ―カリティで足引っ張ってどうするんでしょうね。
養老 独創性と普遍性か、ローカル対ユニバーサルかわかりませんが、それを対立項としてとらえてしまうのですね。どうしてそういうふうになったのか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
科学者の独創性?
確かに、独創性とかよくいいますが、科学は「普遍性」なんですね。
アインシュタイン一般相対性理論が、巨大な重力をもつ天体(ブラックホール )の存在を予言してから約100年になります。
やっぱし、アインシュタインは偉大です。

じじぃの「歴史・思想_19_世界史大図鑑・スターリン」

CNN - Cold War 4/24 Berlin 1948-1949

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PPiZ8wIf_-I

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

眠るほかは、ひたすら飛行機を飛ばした ベルリン空輸(1848年)

1945年のヤルタ会談ポツダム会談では、敗戦したドイツを4つの地域に分割し、それぞれをフランス、イギリス、ソヴィエト連邦アメリカが治めることに戦時の連合国が合意した。首都ベルリンは、ソ連が支配する東ドイツにすっぽりと囲まれ、4つの区域に分割された。
1948年6月24日、ソ連が西ベルリンを封鎖し、鉄道や道路や水路による連絡をすべて断って生活必需品が住民に届かないようにした。合計250万人が、飢えるか共産主義政権を受け入れるか、どちらかの選択を迫られた。東西が衝突すれば、また別の世界大戦につながる可能性があったが、西側諸国は航空機を使って物資をベルリンに落とす計画を考え出した。その後14ヵ月で、救援任務としてベルリンへ27万8,288回の飛行がおこなわれた。空輸の最盛期には、3分に1機がそこへ向かった。

ヨシフ・スターリン より

1920年代半ばから死亡までのあいだソ連の独裁者として君臨したヨシフ・スターリン1878年~1953年)は、反対者を容赦なく抑圧することで知られた。ソヴィエト・ロシアの最初の指導者ウラジーミル・レーニンと知り合った1906年ごろから権力を握るようになる。ロシア革命(1917年)のあいだと革命後、共産党が政権の座を得るにあたって中心的役割を果たし、1922年にはロシア共産党の書記長に就任した。
1927年に政敵を党から除名して権力を掌握すると、ソヴィエト連邦を産業大国へ変容させることをめざす。1928年には五ヵ年計画を考案し、集団農場を導入した。何百万人もの人が強制労働収容所で餓死したり、敵対者と見なされた者への粛正の波によって殺害されたりした。
戦後スターリンの指導のもとで共産党は第2次世界大戦の元連合国と対立するようになった。死亡したあとには、後継者たちから恐怖政治と殺人について糾弾された。

ベルリンの兵糧攻め計画 より

1948年6月、西側の3つの連合国が、自分たちが統治するドイツの各地区を統合して新通貨を導入する計画を発表した。スターリンはすぐさま反応し、ベルリンを封鎖することで兵糧攻めにして、西側から力を奪おうtした。西側諸国は、西部地区の支配権をソ連に与えることを望ます、断固としてベルリンに踏みとどまるつもりだった。
ベルリン空輸は成功をおさめ、スターリンは1949年5月に封鎖を説いた。ベルリンの危機を契機として、西側諸国は北大西洋条約機構NATO)という防衛同盟を形成する。東欧の共産主義諸国はそれに対抗する同盟、ワルシャワ条約機構を1955年に結成した。
ベルリンをめぐる危機によって、米ソ間の敵対感情は激化した。第2次世界大戦後、朝鮮もまた、ソ連が占領する北部とアメリカが占領する南部とに分類される。ソ連を後ろ盾にした北が、1950年6月に南に侵攻した。アメリカは国連軍に兵を派遣し、国連軍が南の救護に向かった。朝鮮戦争は1953年に休戦したが、この戦争とベルリンをめぐる紛争、1949年のソ連初の原爆実験によって、西側で共産主義拡大への恐怖がいっそう高まった。

じじぃの「受け容れられる人口容量・トランポリンの上の相撲?逆立ち日本論」

Why Some Countries Are Poor and Others Rich

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9-4V3HR696k&t=130s

Map of population density by country, per square kilometer

『逆立ち日本論』

養老孟司内田樹/著 新潮社 2007年発行

トランポリンの上の相撲 より

内田 アメリカやオーストリアの話にありましたけれど、環境に対する負荷が高いとそのあとはどうなってしまうのですか? 草がなくなってしまうとか?
養老 そうなのです。ヒツジの過放牧だと、ご存知のように草が一切なくなって、木も生えない状態になり、そのうちに羊も餓死ということになります。厳冬期のモンゴルで、ヒツジの大量死がありましたが、ああいう状況が起こってしまう。
内田 あれも牧羊が環境負荷の高い産業だったということの結果ですか。
養老 環境が私たちの生活を支えられなくなってしまうんです。また、環境というのは、今のように気候変動があってさまざまに変化しますから、悪化してしまうときときも当然あるわけです。
内田 悪化すると、今のライフスタイルも持続がむずかしいですね。
養老 自然環境をある程度維持しながら、日本のように人間が暮らしていくためには、その環境に適した人口の数値を考えていったほうがいいはずです。ただし、適正人口を計算する方法というのはきちんとできていないと思います。 今の日本は少子化だと騒がれています。でも、「何年にはこれくらいになる」という人口の概算だけは出されますが、それが果たして適正か適正でないかという議論はほとんど出てこないのです。
内田 このあいだ新聞で「人口容量(キャリングキャパシティ)」について書かれた記事を読みました。どのちちにもそこが受け容れられる人口容量の限界があり、1億3千万人という数値はすでに日本列島の人口容量を超えているのだから、少子化で抑制行動をとるのは生物として当然であるという主張でした。なるほどそうかと納得したんですけど。
養老 ぼくもそう思っているのです。「減ったらいけない」というけれど、「減ったらどういう問題が起こるのか」ということをきちんと議論しなくてはいけない。ぼくがいちばん危ないと思っているのはそこです。日米関係に関しても即物的に、平たく基本を考えないと身も蓋もない。そこがきちんとしていないと、そこから先の議論は、トランポリンの上の相撲みたいなものです。
内田 トランポリンの上の相撲とは、言い得て妙ですねえ(笑)。

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どうでもいい、じじぃの日記。
人口容量とは、「その国や社会が養うことのできる人口」のこと。
日本は、人口密度でいうとやや過剰でまあ、中国より高い。
しかし、中国の国土面積は日本の約25倍で、人口は日本の約10倍だ。
中国には、「中進国の罠(わな)」というのがあります。
これから中国はどうなるんでしょうか。

じじぃの「歴史・思想_18_世界史大図鑑・レーニン」

The Bolshevik October Revolution

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

もしいまわれわれが権力を掌握しないなら、歴史はわれわれを許さないだろう 十月革命(1917年)

1817年10月、第1次世界大戦で大敗を喫すると、ロシアは混乱状態に陥った。食糧が不足し、都市の労働者は低賃金と過酷な条件にあえいだ。二月革命によって皇帝が追放されたが、代わりにできた臨時政府も崩壊寸前の状況だった。
革命政党ボリシェヴィキ創始者ウラジーミル・レーニンがこの機を最大限に利用した。レーニンは労働者(プロレタリアート)の革命を進めていて、四月テーゼとして知られる文書で一連の政府転覆案を示した。レーニンのスローガン「平和、土地、パン!」が革命のかけ声となる。

ウラジーミル・イリイチレーニン より

1870年4月10日(GC4月22日)にウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして生まれる。このボリシェヴィキ創始者でソヴィエト・ロシアの時代リーダーは、大胆な理論家で疲れを知らない実行者だった。レーニンマルクス主義の革命家として活発に活動をはじめたのは、兄のアレクサンドルが皇帝アレクサンドル3世の暗殺を企てたとして1887年に処刑されたことだ。レーニンはこの出来事によって神と宗教への信仰を捨てた。1895年に逮捕され、シベリアで3年間の流形生活を送る。
レーニンがいちばんの目的としたのは、皇帝への対抗勢力としてひとつのまとまった運動を組織することだった。1917年3月のロシア革命後、時期が訪れたと見てロシアへ帰国する。10月にレーニンボリシェヴィキを率いて当時の政府に反抗し、すべての抵抗を抑えて世界初の共産主義国家の独裁者となった。
レーニンにとって大きな困難となったのが内戦(1918年~20年)だった。共産党が勝利をおさめはしたが、ロシアは弱体化した。またリーダーシップの重圧からレーニンの健康状態も悪化した。2度の発作を経て話す能力も失い、1924年1月21日に死亡した。

革命は間近 より

10月25日(GC11月7日)の夜、レーニンはロシア人民に向けて短い声明を出した。「臨時政府は打倒された。労働者、兵士、農民の革命万歳!」。この最初の勝利ののち、レーニンは民主的選挙をおこなうことを余儀なくされたが、ボリシェヴィキは4分の1しか票を獲得できなかった。レーニンは選出された政権を解散させ、武装衛兵を送って会議がふたたび開かれるのを阻止した。1918年2月、レーニンはドイツと講和条約を結んだが、条件はロシアにとってきびしいものだった。ロシアはバルト三国をドイツへ譲り、ウクライナフィンランドエストニアは独立国家となった。ロシアはまた賠償金として60臆ドイツマルクを支払わされた。これによってボリシェヴィキはドイツからの脅威から解放されたが、条約で強いられた条件は国民の大きな不評を買った。多くの人が、これを国への裏切りだと見なした。

内戦 より

ボリシェヴィキは権力を握ったものの、こんどはそれを維持していく必要があった。レーニンはきわめて中央集権的な統治の仕組みを確立し、野党をすべて禁止して「赤色テロ」、すなわちボリシェヴィキへの脅威と見なされる者を威嚇、処刑、逮捕する作戦をはじめた。
ボリシェヴィキはロシアでは少数派であり、敵対勢力は兵力を結集させて対抗した。敵対勢力は元皇帝主義者、陸軍将校、民主主義者から成る「白色」を主としていた。ボリシェヴィキは「赤色」として知られた。
さまざまな党派が国の将来をめぐって戦ううちに、極端な暴力を特徴とする内戦がロシアで勃発し、1918年から21年までつづいた。白色は、ロシアの元同盟国で共産主義の拡散を恐れるイギリス、フランス、アメリカ、日本から支援を受けた。はじめは大きな勝利を得た。しかし統制がとれておらず、一方のトロツキーは際立った軍事戦術家だった。
1920年レーニンは東欧と中欧の労働者を解放しようと対ポーランド戦争を指示したが、ワルシャワの戦いで猛反撃に遭い、赤軍は追い返された。

荒廃した国 より

レーニン1921年までに白色を破り、ようやくロシア経済の立てなおしに意識を向けられるようになった。
レーニンが向き合うこととなったのは崩壊寸前の国だった。地方ではおよそ600万人の小作農が餓死し、都市では暴動が起こっていた。1921年3月に、ペトログラード海岸沖の島にある海軍の町クロンシュタットで水兵の反乱があり、さらに政権を揺るがす。1万6,000人の兵士と労働者が「ボリシェヴィキのないソヴィエト」を求める網領を採択した。自由選挙で選ばれる会議と、言論・出版の自由を求めたのである。ボリシェヴィキは容赦ない反応を示し、首謀者を何百人も処刑して1万5,000人以上の水兵を艦隊から追放した。
1922年5月、レーニンは病の発作に襲われる。12月にソヴィエト政府は、ソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)の建国を宣言した。ソヴィエト・ロシアと共産主義運動の分派が支配する近隣地域からなる、連邦制の連合国家である。最初からソ連は一党制を前提としており、ほかの政治組織はすべて禁止された。
レーニンは内部抗争に失望し、自分の死後、いかにソ連の国家運営がなされるのかを心配していた。1922年の終わりと1923年のはじめ、レーニンはのちに「遺書」として知られることになるものを書きとらせ、ソヴィエト政府が選んだ道に後悔の念を示している。特に、共産党書記長ヨシフ・スターリンには批判的だった。スターリンとのあいだに軋轢を生んでいた。
レーニン1924年に死んだが、彼の遺産は生きつづけた。ボリシェヴィキが世界初の社会主義国家を大国に打ち立てたことで、すべての国が影響を受けた。社会主義革命の勝利によって、労働者は資本主義やかつての帝国主義体制とは異なる社会がありうることを知り、大きな刺激を受けたのである。

じじぃの「ウラモジタテハ・南米のチョウに描かれた謎の数字・88・89・80?理系の疑問」

butterflies from guatemala mariposa 88 u 89 una diaethria

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iPV1YChn9e0

ウラモジタテハ(Diaethria)

『理系の素朴な大疑問』

博学こだわり倶楽部/編 KAWADE夢文庫 2019年発行

南米のチョウに描かれた謎の数字とは? より

南米に生息するウラモジタテハ(写真.画像参照)なるチョウには、羽の裏面に謎の数字が描かれている。
日本で話題になった人面魚のように、たまたまそのように見えるというのではなく、たしかに数字としか読めない模様が描かれているのだ。しかも、チョウの種類によって描かれた数字も違うというのだから不思議である。
たとえば、クリナメ・ウラモジタテハの場合は88、セロビナ・ウラモジタテハは89、アカネ・ウラモジタテハは80といった具合。まるで識別番号のようである。
例によって「宇宙人が、なんらかの実験や調査の識別のためにつけたものではないか」という噂が絶えない。
しかし、冷静に「チョウの遺伝子情報のなかに8を基本とするパターンがあり、それがある部分が消えることによって0や9に見えるのだろう?」という説がある。
また、「遺伝子情報のなかに模様をつくるものがあり、それが表出したときに数字に見えるのだろう」と判断する学者もいる。
想像力たくましい宇宙人説は、話としてはおもしろいが、信憑性という部分でどうも分(ぶ)が悪い……。

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どうでもいい、じじぃの日記。
南米に生息するウラモジタテハなるチョウには、羽の裏面に「88」「89」「80」の数字が描かれている。
このチョウは英名Eighty(80)と呼ばれているのだそうだ。
8を横にすると∞となり、無限という意味になる。
8(八)という数字は、中国では縁起がいい数字とされてきた。

じじぃの「歴史・思想_17_世界史大図鑑・セシル・ローズ(イギリスの政治家)」

Cecil John Rhodes - African Colossus

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=S8cNZTAmjcE

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

できることなら、惑星だって併合したい ベルリン会議1884年

ベルリン会議1880年以降のヨーロッパによるアフリカの急速な植民地化を引き起こしたわけではない。だがこの会議で、ヨーロッパには文明から遅れた野蛮な大陸であるアフリカを管理する資格があるという、ヨーロッパ自身の主張が確認された。

セシル・ローズ より

アフリカでイギリスの植民地支配をだれよりも熱心に主導したのがセシル・ローズ(1853年~1902年)だった。ローズは資産家でも政治家でもあり、そして冷酷な帝国主義者であった。イギリスの植民地をアフリカの北から南までひとつづきにして、戦略上重要な端であるケープタウンとカイロを結ぶという構想をいだいていた。南アフリカのダイヤモンドの採掘と販売で財産を築き、残りの生涯をこの不敵な構想の実現に捧げた。北ローデシア(現在のザンビアの一部)と南ローデシア(現在のジンバブエ)にイギリスの新しい領土を確保することに成功し、自分の名が両方の地名の由来となった。
1890年からはイギリスのケープ植民地政府の首相となり、ボーア人による共和国を転覆させようと執拗に謀ったことが、1895年の政治生命の終焉を招いた。ローズは帝国主義者の典型と呼べる人物であり、つねにイギリスの植民地支配をひろげようとしただけでなく、ヨーロッパによる支配の正当性をいっさい疑わず、それを押し進めることが自分の責務だという信念をいだいていた。

ヨーロッパによる支配 より

植民地化される前は、アフリカにはさまざまな国や地域があった対照的な例として、エジプトの高度な文明とコンゴ熱帯雨林をあげることができる。また、北部の多くはイスラム教勢力だった。ヨーロッパがアフリカで最初に手に入れた占有地は沿岸部での交易拠点であり、金と奴隷貿易の拠点によって維持されていた。内陸部は手つかずだったが、1800年代初頭にその姿が明らかになるにつれ、ヨーロッパのアフリカ支配が勢いづいた。
それにつづいて緊張関係が高まり、結果としてアフリカのほぼ全土がヨーロッパの支配下に置かれた。アフリカの植民地は、宗主国の都合に合わせて、地図の上に線を引いて作った人為的なものだった。ヨーロッパ人は現地の歴史や文化をまったく無視して、植民地化に対応する反乱が起こるとすべて軍事力で押えつけた。

じじぃの「科学夜話・青色は奇跡の色・生命の色?やわらかな生命」

Color Theory Lesson - CMYK vs RGB

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YtH9eXWuf3Y

色の三原色 光の三原色

プリズム

『やわらかな生命』

福岡伸一/著 文藝春秋 2013年発行

生命の色 より

青は不思議な色である。空の青、海の青、青は自然の中のあらゆるところに見ることができる。そして大気にせよ、水にせよ、いずれももっとも生命に直結した重要な物質の色である。
にもかかわらず、青はそこから取り出してくることができない。水はすくえば透明だし、目の前の空気には色はない。でも見上げると、あるいは眺めると青はいつでもある。そのような遠い色として、青はある。青は色素ではなく、青い現象としてそこにある。
だからこそ、ときに自然の中に、青が凝縮して存在すると私たちはほっとする。ヒマラヤの高原に咲く青いケシを一目見たいと願った人がいる。福岡ハカセもまた、ルリボシカミキリという小さな甲虫の鮮やかな青に魅せられて、少年の頃、幾夏も野山をさまよった。
前節でも触れたように、17世紀、オランダの画家ヨハネス・フェルメールもまた青が人を捉えることに気づいていた。彼が青を描き出すために使ったのが、スマルトとラピスラズリだった。
スマルトとラピスラズリも鉱物である。つまり、青は白い布を染める色素としてではなく、青い構造として、青い作用として一瞬その場に立ち現れる。
宮沢賢治もまた、鉱物的な青をそのような自然の作用として見つめていたのだと思う。世界と「わたくし」を隔てると同時に、つなぐ界面としての青。宮沢賢治はそんな風に青をいつも見ていたのだと思う。
宮沢賢治は、「わたくし」という生命自体にも空気や水に似た、青を見ていた。
「わたくし」という生物は、モノとして見ると、それは物質の集合体である。これは近代科学がずっと追求してきた生命観でもある。しかし、生命はモノでできてはいるけれど、むしろその本質はモノそのものではなく、モノとモノがどのように交信し、相互作用しているかという、その有機的な関係性にある。
つまり生命とは、淡く明滅を繰り返す、1回限りのかそけき現象にすぎない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
絵の具で赤、緑、青を混ぜれば、黒色になる。
ところが、日光で赤、緑、青を混ぜたら、白色になる。
不思議ですね~え。
モルフォ蝶やルリボシカミキリの青色は体色ではなく、光の干渉が起こす「構造色」なのだそうだ。
2014年、日本の科学者3人がノーベル物理学賞を受賞した。彼らが開発したのは「青色発光ダイオード(LED)」だった。
青色は「奇跡の色」なのだという。
どうして、光の三原色で白色になるのか、よく分かりません。 (^^;;