じじぃの「人の生きざま_786_ジム・ロジャーズ(投資家)」

Welcome to Asia in 2030

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eIFgkXt2sQg

Jim Rogers

ジム・ロジャーズが断言「私が10歳の日本人なら、ただちにこの国を去るでしょう」

2017.1.5 クーリエ・ジャポン
私は日本人ではないので、日本人に何かをしろと指示できる立場にありません。
もちろん、日本は基本的に外国人や移民が好きではない、と言えるでしょう。そしていまの日本はとても深刻な問題に直面しています。人口は近年で最低となり、債務は跳ね上がるように増えました。もし私が10歳の日本人だったら、ただちにこの国から去るでしょう。
https://courrier.jp/news/archives/70902/

ジム・ロジャーズ

ウィキペディアWikipedia) より
ジム・ロジャーズ(Jim Rogers、1942年10月19日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の投資家である。
クォンタム・ファンドの共同設立者である。現在はロジャーズ・ホールディングスの会長である。ウォーレン・バフェットジョージ・ソロスと並び「世界三大投資家」と称される。
2018年には中国はトランプ政権の政策と習近平政権により国交を深めよりさらに偉大な国になるであろうと述べている。
2007年に家族とともにニューヨークからシンガポールに移住した。「1807年にロンドンに移住するのは、すばらしいことだった。1907年にニューヨークに移住するのは、すばらしいことだった。そして、2007年にはアジアに移住することが次のすばらしい戦略となるだろう」と英Telegraphのインタビューに答えている。娘たちには将来を見越して、華僑圏で中国語を学ばせている。

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『お金の流れで読む 日本と世界の未来』

ジム・ロジャーズ/著、大野和基/訳 PHP新書 2019年発行

日本の未来を世界史から照射する 閉じた国は滅び、開いた国は栄える――歴史の必然 より

「私がもし10歳の日本人なら、ただちに日本を去るだろう」

日本は、私が世界で1番好きな国の1つである。これまで私は世界1周旅行を2回敢行し、数えきれないほどの都市を訪れたが、その中でも東京――あれほど豊かな食文化が発達している都市を私は知らない。銀座に世界最高のステーキハウスがあるのをいまでも覚えている。
最高のイタリアンレストランは、イタリアではなく日本にあるのだ。もちろん食べ物だけではなく、日本はすべてがすばらしい。京都など、歴史をよく保存している都市も多い。個人的に本当に好きで評価している国だが、その日本が50年後か100年後には消えてしまうのは心から残念でならない。
なぜ消えると断言できるのか? 当然だ。これだけ借金があり、しかも子どもを作らないのだから。私はこれだけ日本を愛しているが、日本に住もうとは思わない。借金と少子化、この2つがシンプルな理由だ。

朝鮮半島が迎える劇的な変化 南北の統一が進めば、韓国経済が抱える問題はすべて解決する より

北朝鮮はこれから2桁成長を遂げる

日本にもほど近い朝鮮半島――。この地は、これから激動の時代を迎えるだろう。韓国と北朝鮮が統一されるからだ。
現在、先進国の経済は停滞ムードに入っている。しかし韓国と北朝鮮は、これから2020年、2022年あたりにかけては、他の国ほど不景気の影響を受けないだろう。北朝鮮の経済状況はいま、世界の最下位と言ってもいいほど低レベルにあるが、それは中国の鄧小平政権における、1980年代前半の頃と同じだ。1981年、中国では計画経済の下で市場経済を発展させる、という決定がなされた。中国が外に対して開かれるようになってから何が起きたか、あなたもよく覚えているだろう。そう、劇的な経済成長だ。
それと同じようなことが、北朝鮮にも起こる。

「もう1つの中華経済圏」台湾・マカオ 大国に振り回されるか、独自の道をゆくか より

台湾は「併合」されるのか

いずれ、中国と台湾が統一される日も来るだろう。中国に行ったら、「台湾は中国の一部である」と言った方が喜ばれる。台湾では、「中国という国は1つしかない。我々がそれだ。我々が本国をコントロールすべきだ」と言っているのだが。いずれにせよ、両者ともに「中国と台湾は1つの国」だという見解は一致しており、いずれ本当にゆっくりと1つの国になるだろう。
50年前、いや、30年前でさえも、中国南東のビーチに行けば、海岸線に有刺鉄線が張られており、銃が台湾の方向に向けられていた。台湾に行けば、中国側に有刺鉄線と銃が備えられていた。
いまはもちろん、そのようなものはない。20年前、中国から台湾に行く手段はなかった。いったん香港に飛んで、それから台湾に飛ばなければならなかった。いまは飛行機でも船でも、中国と台湾間の行き来は自由だ。中国人がたくさん台湾に渡っている。変化は着実に起きている。
最終的には、みなが中国の台湾併合を受け入れることになるだろうと思う。いますぐではないが、いずれはそうなる。ここ30年の変化を見ればそう言うことができる。

じじぃの「北朝鮮・情報戦・新聞が伝えたミッドウェー海戦!流言のメディア史」

金正恩氏「核のボタンが私の机に」 新年演説で威嚇

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZfUHwvNhjv0

新聞が伝えたミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦

ウィキペディアWikipedia) より
ミッドウェー海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。
同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害を被り、アメリカ海軍もヨークタウンを失った。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。

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『流言のメディア史』

佐藤卓己/著 岩波新書 2019年発行

言論統制の民意――造言飛語と防諜戦 より

まず本章で扱う戦時下のメディア流言との関連でいえば、新聞紙面の「誤報」や「捏造」のたぐいは今日よりも圧倒的に多かったという事実である。実際、戦前の新聞紙面に「与太記事」が含まれることは世間の常識であり、「新聞ダネ」はガセネタの意味でも使われていた。それゆえに今日ほど新聞の誤報が社会的に糾弾されることもなかった。つまり、「誤報」の悪影響が増大したのは、戦後に新聞の信頼性が向上したからにほかならない。あまりよい喩(たと)えではないが、悪びれたヤンキー(註・アメリカ人ではない)がつく100の「虚言」よりも、良心的な優等生が口にする1つの「憶測」のほうがはるかに有害だということである。同じ理由から次章で論じる朝日新聞誤報問題(捏造問題)でも「詐話師」吉田清治朝鮮半島で日本軍が女性を強制連行したと虚偽の証言をした人物)の責任よりもそれにクレジットを与えた「クオリティ・ペーパー」の責任がはるかに重いとみなすことも出来る。それは、眉唾と割り引いて読まれている週刊誌やウェブと、その大半は正確な情報だと信用されている新聞やテレビと、いったいどちらが取扱い注意かという今日的な問題にもつながる。
流言の歴史研究が最も進んでいるのは、アジア・太平洋戦争期の戦時流言研究だろう。戦時下に海軍技術研究所が思想戦対策のために心理学者を集めて行った流言研究資料を分析した佐藤健二『流言蜚語』(1995)、「特高月報」など治安当局の史料を使って民衆心理の変化を論じた川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(2004)など優れた先行研究が存在する。
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いずれにせよ、戦意の高揚期、日米開戦直後から1942年前半にかけて造言飛語(起訴)数は相対的に少ない。内務省警保局編「特高月報」から不穏言動を集めた資料集『昭和特高弾圧史 5 庶民にたいする弾圧』(1975)は、「大東戦争」1年目についてこう概観している。
  この年は、四月までは比較的に不敬・厭戦言動がすくなかった。やはり「緒戦の戦果」によるものであろう。しかし、ミッドウェー沖海戦の敗北の噂は、広範な国民層に知れわたった。夏から秋にかけて、不敬・厭戦・不穏言動は、日本の津々浦々におこなわれた。この年の特徴は不敬・不穏・厭戦が分けがたく結びついていることにあった。
「心の敵への宣戦」を訴える中村古峡の『流言の解剖』(1942)は、こうした「噂」の広がりに対抗すべく刊行された一般向け啓蒙書である。中村はミッドウェー海戦の約1ヵ月後、1942年7月12日付『東京日日新聞』の「銃後も戦ふ秘密戦――防諜座談会 2」から海軍省軍務局・岡巌中佐の発言を引用している。
  随分詮索する人があるます。わが航空母艦がやられたといふと、それは○○でせうとか、△△だとか、××だらうとかいふのです。ありったけの航空母艦の名前を並べて、そして人の顔色を見るのです。そして軍の者が話したように、方々でしやべるのです。何ぞ知らん、その航空母艦はピンピンして爆撃をしてゐるのです。
ミッドウェーにおける主力空母4隻の喪失という事実を否定する内容だが、むしろそのうわさが「広範な国民層」にま広まっていたことを裏付ける発言である。

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どうでもいい、じじぃの日記。
日本が太平洋戦争に負けた理由は、日本とアメリカとの経済力の差と、情報戦の差にあったという説があります。
ミッドウェー海戦では、アメリカ軍は既に日本海軍の戦略暗号を解読していてミッドウェーに罠を張って待ち伏せしていたらしい。
「ミッドウェー沖海戦の敗北の噂は、広範な国民層に知れわたった」
つまり、ミッドウェー海戦の敗北を機に、新聞はウソを書くようになった。
北朝鮮朝鮮労働党委員長 金正恩は”腹違い”の兄の金正男を暗殺した。
先日テレビを見ていたら、金正恩が演説するのを涙を流して聞いている若い女性がいた。
彼女が兄殺しまでして権力の座にしがみついている男の真実(情報)を知ったら、同じ涙を流すものだろうか。

じじぃの「科学・芸術_806_大図鑑・文字の発達」

Alphabet Phenicien (the Phoenician Alphabet)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qAjssqd9yt0

Sumerian cuneiform

『ビッグヒストリー大図鑑:宇宙と人類 138億年の物語』

デイヴィッド・クリスチャン/監修、ビッグヒストリー・インスティテュート/協力、オフィス宮崎/日本語版編集 河出書房新社 2017年発行

文字の発達 より

文字の登場は、最古の文明で経済活動を記録するために絵文字が使われはじめたときにまでさかのぼる。シュメールやエジプトの絵文字は、言葉、アイデア、音声を表すことができた。

文字表記のスタイルは、使われる素材に合わせてそれぞれ異なる進化を遂げた。シュメールの楔形文字では単純なV文字型の文字が使われたが、これは、柔らかい粘土に先のとがった筆記具を押しつけて書くためである。漢字の流れるような書体は、もともと竹の皮に筆で書いていたからである。アルファベットは、エジプトの東隣に住んでいた民族が30個ほどの象形文字を借用し、それを音声を表すために使用したことから生まれた。アルファベットには最初は子音を表す記号しかなく、後にギリシャ人が母音記号を追加した。
文字体系に関しては、古代の文書がたまたま残っているかどうかが決め手となるため、その起源を特定するのが難しい場合がある。シュメールの粘土板は何千年という歳月を生き延びて現在まで残っているが、竹に書かれた古代中国の文字はほとんど残っていない。
・紀元前3300年ごろ、絵文字をもとにしたエジプトの象形文字ヒエログリフ)は初めて用いられる。
・紀元前3000年ごろ、紙の原型であるパピルスがエジプトで発明される。
・紀元前2600年、インダス川流域で文字が発明されるが、これはまだ解読されていない。インダスの文字には約400の記号があり、右から左へと読んでいう。
・現存する最古の中国文字は、紀元前2500年のものである。
・紀元前2350年、メソポタミアアッカド人が楔形文字を簡略化し、記号の数を約600に減らす。
・紀元前1900年、クレタ島のミノア人が「線文字A」を発明する。エジプトとの交易がきっかけとなって生まれたこの文字は、主に帳簿をつけるために使われた。
・紀元前1450年、ミュケナイ人が線文字Aを改良して線文字Bを作り出す。これがギリシャ文字の最古の形である。
・紀元前1200年、フェニキア人が原シナイ文字のアルファベットを簡略化して、東地中海一帯に広める。このアルファベットは22の記号からなり、すべての子音を表していた。
・紀元前800年、ギリシャ人がフェニキア文字を土台に母音を加えて、完全なアルファベットを考案する。
・紀元前3世紀ごろ、エジプトにアレキサンドリア図書館が建設される。
・紀元前196年、エジプトでロゼッタ・ストーンに文字が刻まれる。文字はヒエログリフ、デモティック、そしてギリシャ語で刻まれたため、後世のエジプト文字解読に大いに役立った。
・西暦1世紀、ローマ人が冊子本を作成する。ページごとに分かれた最古の書物で、巻き物より読みやすい。
・西暦1世紀、中国で木版印刷術が発明される。
・5世紀、日本で中国文字(漢字)から2種類の表意文字(平仮名と片仮名)が作られ、日本人は3種類の文字体系をもつことになる。
・1408年、中国で「永楽大典」が完成する。ウィキペディアが生まれるまでは世界最大の百科事典で、1万1095冊に7000種類の記事が収録されていた。
・1440年ごろ、ドイツの出版業者ヨハネス・グーテンベルグが世界初の活版印刷機を製作する。このおかげで書物を大量生産でき、手ごろな価格で提供できるようになったため、識字率が向上した。

じじぃの「フェイクニュース・パニック報道・『火星人来襲』から始まった?流言のメディア史」

Orson Welles - War Of The Worlds - Radio Broadcast 1938 - Complete Broadcast.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Xs0K4ApWl4g

A New Jersey farmer readies himself

to fight off invading Martians,

Radio broadcast of War of the Worlds panics Seattle and the nation on October 30, 1938.

10/24/2002 HistoryLink.org
https://historylink.org/File/4002

『流言のメディア史』

佐藤卓己/著 岩波新書 2019年発行

メディア・パニック神話――「火星人来襲」から始まった? より

ここで興味深いのは、ヴァーチャル・リアリティーの影響を批判するスロウカが「火星人来襲パニック」が歴史事件であることをまるで疑っていないことだ。結論から言ってしまおう。「火星人来襲」というラジオのフェイクニュースから”いま”が始まったわけではない。正確に言えば、”いま”始まったのは新聞のフェイクニュース「火星人来襲パニック」からであり、それに依拠したハドリー・キャントリルのラジオ調査『火星人からの侵入――パニックの社会心理学』(原著、1940)からである。そう主張する論文を含む『宇宙戦争からソーシャルメディアへ』(2013)を手にしたとき、私はちょっとした衝撃を覚えたものだ。私も講義で語ってきた「定説」が否定されたためである。
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「火星人来襲パニック」について最も頻繁に引用される記事は、翌10月31日付『ニューヨーク・タイムズ』の第一面にある。「ラジオ聴取者のパニック――戦争劇を事実と取る」の見出しの下で、「”火星からの毒ガス”から逃れるべく避難者多数――ウェルズの空想小説放送で警察に電話殺到」が報じられている。全米の新聞は3週間で1万2500件の関連記事を掲載したという。事件が翌日の新聞で大々的に報じられたのは、日曜日の夜に突如として新聞社に問い合わせの電話が殺到したことも一因だろう。AP通信社はラジオ番組中の8時48分に各加盟新聞社に「隕石衝突によってニュージャージーの住民が殺戮されたとの報道はラジオ・ドラマのフィクションにすぎない」と特別通信を送っている。翌日、ハロウィン当日の新聞記事にはAP発の記事が中心であり、記者はそれ以外の想像力で補って書いた。裏付け調査で確認できない「事件」が多いのはそのためである。

多くの新聞が掲載した「猟銃で火星人を待ち受けるグローバーズ・ミルの農場主(図.画像参照)の写真もヤラセだった。

「あの翌日、新聞カメラマンの要請で撮られたもの」であることを脚本家ハワード・コック自らが31年後に現地を訪れて突き止めている(コック、1971)。
たまたま停電が発生した西海岸のワシントン州コンクリートでは住民は特に不安を募らせたようだが、それを大きく報じた通信社の記事によりこの町は有名になった。だが、関連報道はハロウィンパーティーの終了とともに、急速に紙面から消えている。つまり、「火星人来襲パニック」はラジオと新聞の合作による二重の意味でのメディア流言だった。大量の新聞記事があるが、警察や病院などの記録で裏付けが取れる重大事故は自殺を含め1軒も確認できなかった。キャントリルが指導するプリンストン大学のラジオ研究班は、ニューアークで数人がショックで病院に運びこまれたという「うわさ」を検証しようとしたが、誤報であることが判明した。同グループはニューヨーク市の病院でパニックによる搬送車の記録を探したがそれも発見できなかった。また、『ワシントン・ポスト』が報じた心臓発作を起こしたバルティモアの聴取者についても確証を得ることは結局できなかった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
H・G・ウェルズによる1898年の小説『宇宙戦争』を、当時の現代風にアレンジしたハワード・コッチの脚本は、偽のニュース番組として放送された。
ニュージャージー州ウェストウィンザー・タウンシップにあるグローバーズミルという村落で、農場の近くに宇宙船が着陸したと、ニュースキャスターが迫真の“生放送”を行った。宇宙船の中から火星人が現れて、住民40人を殺害したと、キャスターは重々しい口調で伝えた。
「猟銃で火星人を待ち受けるグローバーズ・ミルの農場主」
しかし、新聞に載った写真はヤラセだった。
ドナルド・トランプさんが大統領選に勝利したのは、「フェイクニュースが影響した」とか言われています。

じじぃの「科学・芸術_805_大図鑑・金属の利用」

The Ancient Varna culture

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=F5dyJVtr2rE

Varna Bulgaria 4700-4200 BC

古代ヴァルナ (ブルガリア)

ウィキペディアWikipedia) より
先史時代の集落である銅器時代のヴァルナ・ネクロポリス(放射性炭素年代測定で紀元前5,000年半ばに遡る)は世界の先史時代の考古学上の鍵となる遺跡で古ヨーロッパやヴァルナ文化のエポニムであり、現代の都市域では世界的に最古で最大の金の工芸品が発見されている。
広い地域では1900年以前は淡水湖であったヴァルナ湖と隣接したカルスト地形の泉や洞窟では30を超える先史時代の集落が発見され、旧石器時代中期か10万年以上前の最初期の遺品が発見されている。

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『ビッグヒストリー大図鑑:宇宙と人類 138億年の物語』

デイヴィッド・クリスチャン/監修、ビッグヒストリー・インスティテュート/協力、オフィス宮崎/日本語版編集 河出書房新社 2017年発行

金属の利用 より

冶金術の発明は、歴史上最も重要な技術進歩のひとつだった。金属器は型に入れたり槌で打ったりして新しい形に成型でき、切れ味が鈍ったら研ぎなおすこともできる。

冶金術はいくつかの段階を経て発達した。ユーラシアの人々は、徐々に硬い金属を処理する方法を学習していったのである。最初に利用された金属は銅である。銅は柔らかいので、銅器は定期的に研ぎなおす必要があった。次いで、銅に少量の錫を加えて青銅を作る方法が発明された。青銅は銅より硬く、剣や槍、盾に適していた。銅と錫はどちらも希少金属であるため、青銅器を使うのは主に特権階級の人間だった。
最後に利用されるようになったのは鉄である。鉄を精錬するのは非常に高温の炉が必要だからだ。とはいえ、高価な武器にも日用の道具や釘にもなる鉄が使えるようになると、アフロユーラシアの人々の生活は大きく変化する。
現時点で世界最古の金製品は紀元前4600年~紀元前4200年ごろのもので、ヴァルナ(ブルガリア)の墓地に死者とともに埋葬されていた。

最初の金属

金属加工は紀元前7000年ごり、中東の肥沃な三日月地帯で、農耕社会の人々が自然に産出する金、銅、鉛の塊から装飾品を作ったのが始まりである。これらは軟金属で、熱を加えなくても細工ができるが、槌でたたきすぎると砕けてしまう。

青銅の発明

青銅は銅と別の金属(多くの場合錫)の合金である。銅と錫も鉱石が同じ場所で見つかることはまれなので、錫青銅は交易が行なわれていたことの証拠となる。青銅器時代の始まりを紀元前3500ごろと考える考古学者が多いが、錫青銅はそれより1000年も前にセルビアで作られていた形跡がある。

鉄への移行

鉄器時代の始まりについては諸説あるが、インドで発掘された鉄製品やアナトリア(トルコ)の鋼鉄製造の跡は、紀元前1800年のものである。鉄は埋蔵量の多い金属だが、高温で精錬しなければ使えない。錫の交易が途絶えたために、青銅に代わってより安価な鉄が使われるようになった可能性がある。

じじぃの「意味深い漢字・子宮の中の胎児をあらわす・『包』!超ヤバい話」

象形文字 「包」

象形文字 「令」

漢字の覚え方 包

2014年3月9日 風船あられの漢字ブログ
漢字には『単語家族』と呼ばれる漢字の仲間があります。
今日は『包(ホウ)』baoという字を中心とした『単語家族』を説明します。この『単語家族』には包、抱、砲、胞、飽、泡という漢字が含まれます。
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-01ff.html

『超ヤバい話 ―地球・人間・エネルギーの危機と未来』

長沼毅/著 さくら舎 2017年発行

「包」という漢字の意味

それでは、早速内容に入っていこうと思います。ちなみに、この場所は大阪ミナミの宗右衛門町ですが、この町の一角に壁に宣伝文句が書いてある変わったビルがありました。「包まぬ豚はただの豚」と建物の壁面に書いてある。
これは何だと思っていたら、このビルは韓国料理屋さんの建物でした。聞けば、韓国料理のサムギョプサルにちなんだものだそうです。要は焼き肉をサンチュというレタスの一種の葉っぱに包んで食べることに意味があるらしいです。粋というか何というか。肉を葉っぱに包んで食べることに意味があるから、「包まぬ豚はただの豚」となってきるのですが、では「包む」って一体何だというのが私の疑問の始まりでした。包むことにそんなに意味があるのだったら、包むとはそもそも何なんだと。
「包」という漢字ですが、もともとはこういう字でした(図.画像参照)。漢字は象形文字から発していますよね。この象形文字の「包」という字はもともと何から来たと思いますか。これは女性の子宮をあらわしていて、子宮の中に胎児が入っている様子なんですって。こういったことが包むという字の意味だということを知って、深いなと思いました。
この字を見て思ったんですけど、これを使ったさまざまな漢字がありますね。たとえば「抱く」という字。てへんがついているから、手でこれを支えるとか守るという意味があるのでしょうが、こういうふうにして見ると、この字がすごく愛おしく思えてきます。

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どうでもいい、じじぃの日記。
漢字は殷の時代から甲骨文字として存在した。
紀元前221年、秦の始皇帝によって中国が統一されることで各地で変化していた字形が統一され、ほぼ今日本で使われている漢字の字形が完成したといわれる。
漢字の大部分は、部首(意味記号)と音記号があわさってできた形声文字なのだそうです。
たとえば「抱」は、部首「てへん」+音記号「包」(ほう)、「泡」は、部首「さんずい」+音記号「包」(ほう)。
もともと、「包」は女性の子宮をあらわしている、と言うから奥深いです。
元号「令和」の「令」は初めて元号に採用された漢字とのこと。
令は「立派な」という意味と、「神様のお告げ」という意味があるのだとか。
令はもともと「冠」+「ひざまずく人」という象形文字からきているのだそうです。

じじぃの「科学・芸術_804_大図鑑・火の利用」

The story of Ateret (Chastellet), a crusader fortress at Gesher Benot Yaakov in Israel

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WILzMa-zIt0

Gesher Benot Ya’aqov.

Vestonicka venuse

『ビッグヒストリー大図鑑:宇宙と人類 138億年の物語』

デイヴィッド・クリスチャン/監修、ビッグヒストリー・インスティテュート/協力、オフィス宮崎/日本語版編集 河出書房新社 2017年発行

火の利用 より

火を使うのは人間に特有の能力であり、ヒト属の進化に欠かせない重要な原動力でもあった。しかし、人類は火を十分に制御できるようになったのは、進化も後期に入った比較的最近のことにすぎない。
火を使った最古の形跡は、南アフリカのワンダーワーク洞窟にある。約100万年前の堆積物を詳しく分析すると、洞窟の奥深くで骨や植物が焼かれたことがわかぅた。ただし、初期の人類は、例えば落雷などの自然現象による火災を利用していた可能性がある。火を上手に制御して繰り返し使用できるようになったのは約80万年前で、イスラエルのジスルバノトヤコブにその形跡が見られる。ここでは10万年にわたって何かを焼く行為が繰り返されていて、ここに住んでいたホモ・エレクトスが火をおこし、その火を絶やさないようにしていたことがわかる。
40万年前以降の遺跡では、灰や炭、焼けた骨などが何層にも重なって見つかることが多く、これは火が常用されていたことを示すものだ。そのころ、ヨーロッパではネアンデルタール人が出現し、初めて物を作るため火を使ったと見られている。イタリアのカンピテッロ遺跡(約30万年前)では、カバノキの樹皮のタールが塗られた石器が見つかったが、このタールは複数の部品からなる道具を組み立てるのに接着剤として使用されていた。
火の使い方に精通したことで、社会生活にも変化が訪れた。20万年前には住居の中心に火がたかれるようになり、この環境が言語の発達に大きな役割を果たしたと思われる。焚き火のおかげで洞窟内が明るくなり、そのそばで手作業ができるようになるが、細かい作業をするには十分な明るさではなかった。そのため、会話や物語りの機会が増えたのである、また、調理が初めて行われたのは約80万年前で、これらも火の利用の一例である。
約3万5000年前から5000年の間、東ヨーロッパでは粘土を焼いて動物や人間の小像が作られ、2万年前の中国で最古の土器が作られた。それ以降も火は多くの新技術をもたらし、特に人類が狩猟採集生活から脱するのに大きな役割を果たした。

カバノキからタールを作る

カバノキの樹皮タールは旧石器時代以降、接薬剤として使われた。最初に作ったのはネアンデルタール人で、その製法は、カバノキの樹皮を温度を管理しながら数時間「加熱」するというものだ。次に溶けたタールを集めて冷やす。すると固くなるので、複数の部品からなる道具を組み立てるとき、継ぎ目にパテのように詰めて使う。

粘土の小立象

焼き物の像として最も古いクロアチアで発見された「ドルニー・ヴェストニツェ・ヴィーナス」。約2万9000年~2万5000年前に作られたもので、作者が火の効果を試してみたことを示す証拠である。

土器

日本の縄文人が作ったこの壺のような土器は、調理や食料の保存に大いに役に立つ。農耕生活が始まると穀物やその他の食料を入れる頑丈な容器が必要になり、土器の生産は各地に普及した。