じじぃの「科学・地球_521_ヒッグス粒子の発見・79行の論文2」

南部陽一郎氏インタビュー(福井新聞 2008年10月)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FSGsf0iF-z4

早すぎた予言者 南部陽一郎


【早すぎた予言者 南部陽一郎】「対称性の自発的破れ」が生まれた充実のシカゴ時代

2021.12.04 大栗 博司
自発的対称性の破れ」をはじめとする数々の新理論を発見し、"質量"と"力"の起源に迫った南部陽一郎
その後のヒッグス粒子の発見や電弱統一理論の確立にも絶大な貢献をした彼は、20世紀最高の物理学者の1人と称されたにもかかわらず、ノーベル賞受賞は理論発表から半世紀近くも待たねばならなかった。
あまりにも時代を先取りしていたことから「予言者」「魔法使い」とも呼ばれた天才は、どのような人間だったのか? 初の本格的評伝『早すぎた男 南部陽一郎物語』の刊行を記念して、かつて南部研究室で「門下生」として身近に接した経験をもつ大栗博司氏(東京大学カブリIPMU機構長)が、師の逝去に際して寄せた追悼文を全3回にわたってご覧いただく。
https://gendai.media/articles/-/89285

ヒッグス粒子の発見――理論的予測と探究の全記録

【目次】
プロローグ
第1章 プリンストンへ――その遥かなる道のり
 ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
第2章 原爆の影
 科学者に明日は予見できない
第3章 79行の論文
 南部陽一郎の論文と出会って
 自発的対称性の破れ
 CERNに送った論文
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第11章 「隠された世界」
 ヒッグスから届いた手紙
最終章 「新しい粒子」に導かれて
 「発見」と「観測」
 「発見したのです」

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ヒッグス粒子の発見』

イアン・サンプル/著、上原昌子/訳 ブルーバックス 2013年発行

第3章 79行の論文 より

南部陽一郎の論文と出会って

エディンバラ大学の物理学科でのヒッグスは、秘書のオフィスに毎週持ち込まれる学術誌の管理を引き受けた。彼はそれらにザッと目を通し、表紙に日付を記して、他の研究者のために書棚に整理していた。

1961年の春、新しく届いたばかりの雑誌の1冊を手に取り、ページをめくっていたヒッグスは、ふとある記述に目を止めた。シカゴ大学の物理学者、南部陽一郎が、素粒子はどのようにして質量を獲得したのかを説明するために、超伝導体の理論を利用した論文を書いていたのだ。南部はシカゴにやって来る前に、アインシュタインとともに研究に取り込み、大きな評判を得ていた。同僚たちは南部について、「はるか先を行っていることが多いので、人は彼のことが理解できない」と語っている。

「対称性の破れ」に注目せよ

南部の発想の大転換は、宇宙で起こった何か他の対称性の破れが、質量のない素粒子に質量をもたらしたのではないかというものだった。

彼の論文は結果として、陽子や中性子、その他いくつかの素粒子に質量を与える対称性の破れがどのようにして起こりうるかを大まかながら説明していた。その研究は、何1つ確かめられていなかったが、ヒッグスを含め、多くの科学者たちの心に種をまいた――「対称性の破れ」は、質量の起源を探るカギになるかもしれない。

対称性が物理学の歴史に果たした重要性は、いくら誇張してもしすぎることはない。ガレリオの時代からずっと、物理学者は対称性を自然界の法則を理解する指針と見なしてきた。物理学者は、「対称性とは、異なる環境の下でも変わらない自然の性質である」としている。

自発的対称性の破れ

南部陽一郎は、素粒子の質量に核心に「自発的対称性の破れ」があるとした。ペンの一端を下にして垂直に立たせ、そのままにしておいたなら、あなたは対称性の破れが自然発生的に起こるさまを目撃するだろう。倒れたペンの先端は、必ずどこか一方向を指す、そのときぺんは、対称性をもった「垂直に立った姿勢」から、「横たわった」非対称性の姿勢へと変化している。対称性の損失は、避けられない。ペンは地球の重力場がもつ引っ張る力に負けたのである。

南部の研究は、「宇宙は対称性のあった局面に誕生し、その時点では全ての素粒子が質量をもっていなかった」と確信した。その後に、新しい種類の場の影響を受けて対称性が破れいくつかの素粒子が突然、質量を獲得したと主張したのである。

南部の考えには説得力があった。だが、南部自身も気づいている欠陥があった。英国の物理学者、ジェフリー・ゴールドストーン(1933年~)は、南部が提唱した対称性の破れは、必ず質量のない素粒子の追加注文とセットになっていると指摘した。つまり、必ず新しい素粒子がそのプロセスにおいて作られているということである。

もしそのような未知の素粒子が存在するならば、それらは自然界で簡単に作られ、太陽や他の恒星から放出されるだろうし、私たちはあらゆる場所でそれを観測するだろう。私たちがいまだそのような素粒子を観測していないという避けられない事実が、南部の理論は間違っていることを示唆していた。

明かな欠陥があるにもかかわらず、南部の主張の中に何か核心を突くものの存在を感じた人間は、ヒッグスだけではなかった。ニューヨーク州コーネル大学にいた2人の物理学者、ロバート・ブラウト(1928~2011年)とフランソア・アングレール(1932年~)は、南部の論文が量子物理学にとって深い意義をもつものであると確信した。
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南部の理論が発表されてほどなく、アングレールは苛立ちを隠せなくなっていた。都市生活の刺激が恋しくなった彼はブリュッセルに戻ることを考え始め、やがてコーネル大学の教員の職を辞して、1862年にベルギーに帰った。ベルギーで過ごした経験を持つブラウトはすぐにアングレールを追い、ともに自由大学で職を得た。そこで2人は、南部の研究の詳細をしらみつぶしに調べ始めたのである。

南部理論に取り組んだ第3のグループ

ケンブリッジ大学マサチューセッツ工科大学(MIT)では、もう1つの物理学者グループが、ヒッグス、ブラウト、アングレールがすでに取り組んでいたのと同じ問題を格闘し始めた。彼らは、他の学者たちが何をしようとしているにか、あるいは、自分たちがやがて現代物理学において最大級の賞の1つになるテーマを競っていることさえも、理解していなかった。

ジェラルド(ゲリー)・グラーリニク(1936年~)とリチャード・ハーゲン(1937年~)は、切ってもきれない関係にあった。グラーリニクはハーバードに、ハーゲンはMITに通っていたが、2つの大学は講義を互いに共有していた。

自身の研究で1940年代の量子電磁力学に形を作ったハーバードの物理学者、ジュリアン・シュウィンガーに対する畏敬の念に、2人は打たれていた。講義に登場したシュウィンガーは、黒板の左上の隅から方程式を書き始め、右下の隅に達するまで書き続けた。ようやくストップしたところで、シュウィンガーが静かに部屋の外へ出ていった。彼の講義は当初、不可解なものに見えたが、辛抱してついていけば、シュウィンガーのたぐいまれな能力が本物であることがはっきりと理解できた。

1964年、グラーリニクはインペリアル・カレッジで特別研究員(フェローシップ)の職を得て、ロンドンに移った。同大学ではパキスタンの優秀な物理学者、アブドゥス・サラム(1926~96年)が対称性の破れに関する物理学の世界的な専門家としてきわめて信頼の置ける理論家グループを率いていた。