じじぃの「歴史・思想_514_バイアスとは何か・人間機械論」

Famous illusions that trick the mind - what do you see?

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ビルの上に巨大三毛猫が なぜ? 街行く人ビックリ

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歴史・思想_514_バイアスとは何か・偏見を取り除くには

バイアスとは何か 藤田政博著 ちくま新書

事実や自己、他者をゆがんだかたちで認知する現象、バイアス。それはなぜ起こるのか?
日常のさまざまな場面で生じるバイアスを紹介し、その緩和策を提示する。
【目次】
第1章 バイアスとは何か
第2章 バイアス研究の巨人――カーネマンとトヴァースキ
第3章 現実認知のバイアス
第4章 自己についてのバイアス
第5章 対人関係のバイアス

第6章 改めて、バイアスとは何か

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『バイアスとは何か』

藤田政博/著 ちくま新書 2021年発行

まえがき より

この本は、『バイアスとは何か』という本です。その名の通り、バイアスとは何かについての基本的な理解を得ることを目標にしています。あらかじめ一言でまとめるならば、バイアスというのは人間がさまざまな対象を認知する際に生じるゆがみのことで、基本的には心理学、特に認知心理学の領域の問題だとされます。

第6章 改めて、バイアスとは何か より

2 バイアスを緩和する方法

意思決定の誤り?

バイアスを緩和する方法を考えるにあたって、バイアスによる意思決定の方法を、必然ではなく意思決定の誤りと捉える考え方があります。
本書でこれまで言及してきた進化心理学的な考え方では、バイアスは必然的なものだと考えます。さきほど述べたように、自然環境のなかを生き延びて遺伝子を子孫に伝えていくには、ヒューリスティックス(常に正しい方法とはかぎらなくても問題解決に有効であると思われる経験的原理や方法)は有用であり、それをうまく使った私たちの祖先が生き残って遺伝子を伝えてきたのだから、私たちの心の仕組みのなかにヒューリスティック的なものが残っていてそれが働くのは当然だと考えられます。
しかし、バイアスを緩和していく、あるいはバイアスをなくそうという発想からは、以上のような考えとは反対に、ヒューリスティックスを意思決定における誤りとして捉える考え方が出てきます(相馬・都築,2014)。
バイアスを緩和させる具体的方法については、それぞれのバイアスについてさまざまな提案がなされています。ここでは、個人が起こすバイアスの緩和策として「後知恵バイアス」「係留と調整のバイアス」「確証バイアス」を取り上げた後に、集団に関するバイアスの緩和策として、集団意思決定の場合を扱いましょう。
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3 バイアスから逃れるべきなのか?

人間機械

さて、この章ではさまざまなバイアスを緩和する方法について紹介してきました。ここまでの話には出てきませんですたが、バイアスを緩和しなくてはならないという考え方には、実は隠れた前提があります。それはバイアスとは認知のゆがみであり、ゆがんでいることは好ましくないという考え方です。
たとえば錯視について考えてみましょう。人間が視覚を使って周囲の外界を認知する際に実際の物理的な世界の現実とずれている場合、錯視となります。錯視があることに気がつくと、私たちは自分自身に騙されたような気持になります。正しいと思い込んでいた、自分に見えるものの形が、実は本物の物理的形状とは違うことがはっきりわかるからです。しかも目の前に見えるかたちで、反論の余地なくわかってしまいます。
現実そのままの通りにゆがみなく認識したいと望むなら、実際には無理だとしても、錯視がなったら、よいのにと思います。
また、抽象的なことに関するバイアスでは、たとえば確率判断や、何かを得たときのうれしさ、悲しさの話があります。もし、人間の判断が数値の理屈通りにいくのであれば、確率判断における基準率の誤りは存在しないはずですし、プロスペクト理論(不確実な状況下で意思決定を行う際に、事実と異なる認識の歪みが作用するという意思決定モデルを表した理論)が設定する状況において、何かを得るときのうれしさの大きさと、同じ量のものを失うときの悲しみの大きさは等しいはずです。
しかし、実際には人間は基準率の誤りを犯しますし、同じ量のものを得たうれしさの大きさと失った悲しさの大きさは異なります。錯視はただちにはっきりとはわかないので、なかなか自覚することは難しいかもしれませんが……。
もし人間がこの世の生きていく際に、正確無比な認識を前提としていると考えたいのであれば、このようなずれは望ましくありませんし、なくすべきことになります。
また、以上のような発想は、人間を「劣った機械」とみる考え方につながりがちです。つまり、もし世界を正しく認識できる機械があれば、認識と実際の世界のありようのずれは起きません。それに比べると、さまざまなバイアスに冒された認識をする人間は劣っているようにみえます。したがって、人間は機械よりも劣る存在、あるいは劣った機械であると理解する、そういう発想です。確かにそのように考えることもできますが、人間をそのような存在だと考えると、機械よりも価値がないように感じられて、いたたまれない気持ちにもなってきます。
もちろん、このような捉え方に根拠がないわけではありませんが、認識の正確さだけを取り上げた一面的な評価であるように思えます。人間についての科学的なモデルを構築する際に、科学者はモデルを単純にして扱いやすくするために、自分が注目する要素以外の側面を捨象することがよくあります。たとえば人間を「生き残りマシン」とみなすこともそうです。この考え方を採用すれば、食べて寝て生殖するという生き残りに関する面以外の側面を無視することになります。ただ、実際にはそう考える研究者が人間それ以外の側面を必ずしも軽んじているわけではなく、研究を進めるための有効な便法として用いるに過ぎません。人間はあまりにも複雑なので、すべての面について同時に研究していくのは不可能だからです。

たとえバイアスがあったとしても

この世で起きることは、それ自体に最初から意味がこめられているわけではありません。シミュレーション・ヒューリスティックスの研究でも見たように、1つの出来事に対してはさまざまな見方ができます。そしてそれに応じて意味を付与する可能性もさまざまに存在します。私たちは自分なりの見方を周囲の物事や人に意味づけをし、それに対して感情的・身体的反応を作り出しながら生きています。
そして、人間は現に持っている身体や思考や知識や社会的態度によって、可能な認識や意味づけの仕方に癖があるのです。これが現実と違っていたり(錯視)、理屈に合わない(基準率の誤り)と、「バイアス」と呼ばれます。そう考えると、今の「バイアス」という呼び名自体にも、辞書によっては「偏見」という日本語が訳語としてあてられてしまうことがあるように、人間の認知活動に対する否定的な価値づけを伴うバイアスがこめられているといえます(本書でも取り上げたように、偏見とバイアスは異なる概念です)。
人間がこの世をそのままのかたちで認識していないことを知ることは有用ですが、その際にバイアスをまるごと否定的に捉える見方も一緒に取り込んでしまう必要は必ずしもありません。とりあえず保留しておくことこともできます。
そのように考えると、バイアスに対してこれまでの見方とはちょっと違った見方ができるようになり、また、認知の仕方に癖を持つ人間という存在を慈しむ余裕も出てくるのではないかと思います。