じじぃの「歴史・思想_277_ハラリ・21 Lessons・無知」

My Zipper Pull Came Off! What Now?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CpuCAcNQJ5c

Understanding Zipper opening and closing?

『21 Lessons』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行

15 無知――あなたは自分で思っているほど多くを知らない より

これまでの各章では、誇大に騒ぎ立てられているテロの脅威から、過小評価されている技術的破壊の脅威まで、現代のきわめて重大な問題や展開をいくつか概観してきた。もうたくさんだ、とても手に負えないという執拗な思いが頭に残ったとしたら、あなたはまったく正しい。すべて処理できる人など、いるはずもないのだから。
過去数世紀の間に、自由主義の思想は、合理的な個人というものに絶大な信頼を置くようになった。この思想は、独立した合理的な行動主体として人間を描き出し、この神話上の生き物を現在社会の基盤に仕立て上げた。民主主義は有権者がいちばんよく知っているという考え方の上に成り立っており、自由市場資本主義は顧客はつねに正しいと信じており、自由主義の教育は自分で考えるように生徒に教える。
とはいうものの、合理的な個人というものをそこまで信頼するのは誤りだ。植民地独立後の思想家やフェミニズムの思想家が指摘してきたように、この「合理的な個人」とはどうやら熱狂的性差別主義の西洋の幻想であり、上流階級の白人男性の自立性と権力を賛美している。すでに述べたとおり、人間の決定のほとんどが、合理的な分析ではなく情動的な反応と経験則による近道に基づいており、私たちの情動や経験則は石器時代の暮らしに対処するのには向いていたかもしれないものの、シリコン時代には痛ましいほど不適切であることは、行動経済学者や進化心理学者によって証明済みだ。
合理性だけではなく個人性というのも神話だ。人間はめったに単独では考えない。私たちは集団で考える。子供を育てるには1つの部族全体が必要なのと同じで、道具を発明したり、争いを解決したり、病気を治したりするにも1つの部族全体が必要とされる。大聖堂の建て方であれ、原子爆弾や飛行機の製造法であれ、何から何まで知っている人はいない。ホモ・サピエンスは他のあらゆる他のあらゆる動物を凌ぎ、地球の主人になれたのは、個人の合理性ではなく、大きな集団でいっしょに考えるという。比類のない能力のおかげだった。
個々の人間は、この世界について情けないほどわずかしか知らないし、歴史が進むにつれて、個人の知識はますます乏しくなっていた。石器時代の狩猟採集民は、衣服の作り方も、火の起こし方も、ウサギの狩り方も、ライオンからの逃げ方も知っていた。私たちは今日、自分たちのほうがはるかに多くを知っていると思っているが、じつは個人としては、知っていることははるかに少ない。必要とするもののほぼすべてを他者の専門技術や知識に頼っている。こんな屈辱的な実験があった。参加者は、ありきたりのファスナーの仕組みを自分がどれだけよく理解しているかを評価するように言われた。ほとんどの人は、とてもよく知っていると自信たっぷりに答えた。なにしろ、ファスナーは四六時中使っているのだから、その後、ファスナーがどのように開閉するかを、順を追ってできるだけくわしく説明するように求められた。すると、大半の参加者が、見当もつかなかった。これは、スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックが「知識の錯覚」と名づけた現象だ。私たちは、個人として知っていることはごくわずかであるにもかかわらず、多くを知っているつもりでいる。なぜなら私たちは、他者の頭の中にある知識を、まるで自分のように扱うからだ。
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権力の中心にとどまれば、世界をはなはだしく歪んだ形でしか見られない。だが、思い切って周辺部に行けば、希少な時間をあまりに多く浪費することになる。しかも、この問題は、ポーンであろうとキングであろうと、世界の行方を決める技術的な装置や経済の動向や政治のダイナミクスについて、知っていることがいっそう少なくなる。2000年以上前にソクラテスが述べたとおり、そのような状況下や取りうる最善の行動は、私たち一人ひとりが自らの無知を認めることだ。
だが、そうだとしたら、道徳と正義はどうなるのか? もし私たちにはこの世界が理解できないのなら、正しいものと間違っているもの、正義と不正義を区別することなど、どうして望めるのだろうか?