G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』読書会(2016 3 19) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VunyL8Zfe0s
ガルシア=マルケス
ガルシアマルケスの「百年の孤独」は、僕にとっては大好きな決して終わらない小説だ。 2014.04.18 TaoZen
「百年の孤独」は、もう高校の時から少なくても7回も読み直して、そしてその度に読破できずにいる本。
長編ではあるけれど、そんなに特別に長い本ではないけれど、僕はどうしても読み終えずに満足してしまっている本。
読み終えたことがないのに、僕の中で好きな小説の中のベスト5に入る本だ。
http://masahiro.taozen.jp/archives/3414
『ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』 橋本陽介/著 角川選書 2018年発行
ラテンアメリカと魔術的リアリズム ガブリエル・ガルシア・マルケス (1982年) より
飛ぶように売れた『百年の孤独』
ガルシア=マルケスは1928年にコロンビアのアラカタカ生まれ。ボゴタ大学を中退後、54年に新聞「エル・エスペクタドル」の記者となった。55年にローマに赴いた後、フランスに移り、58年に帰国、61年からはメキシコに移り住んだ。作家としては1955年に『落葉』でデビューする。67年に代表作『百年の孤独』を世に出し、その「魔術的リアリズム」は世界的なブームとなった。
『百年の孤独』は、マコンドという村を創始したブエンディア一族の百年間を描いた小説である。一族の長、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、決闘で人を殺してしまい、元々いた村から出ていかざるを得なくなる。そこでジャングルを旅して土地を見つけ、新たな村マコンドを建設する。このマコンドとブエンディア一族を中心にして起こる様々な出来事の積み重ねから物語が展開する。膨大な数のエピソードが詰め込まれていくが、どのエピソードにも、通常の価値観からいえば「ありえない」話が目につく。伝染性の不眠症が流行したり、美女がシーツに乗って昇天したり、雨が4年11ヵ月と2日降り続いて、空気が水を含んでしまったために、空中を魚が泳いだりする。
『百年の孤独』では、このようにありえそうもないことが次々に起こる。そのありそうもない出来事の数々が第1の見どころである。ひとつひとつのエピソードが奇想天外でおもしろい。エピソードそのものがおもしろいのは、物語の王道である。この小説はラテンアメリカではホットドッグのように売れたと言うが、それはエンターテインメントとしても読めるからに他ならない。
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『百年の孤独』では、出来事が中心に叙述され、「誰が、いつ、どこで、何をした」かが淡々と客観的に並べられていく。一方で、状況の描写や心理描写は少ない。このため、非常に速いスピードで物語が進行していく。また、詳細な情報が付け加えられることによってリアリティーを出している。
引用した箇所では、血がまるで生きているかのようにウルスラのもとに到達している。「異常な」出来事であるが、それがごく当然のように書かれている。また、血の流れる経路が詳細に描かれているのもわかる。
『百年の孤独』に見られる魔術的なリアリズムの特徴は、この詳細に語られる部分にある。例えば、単に「客間を横切り」ではなく、「敷物を汚さないように壁ぎわに沿って」という修飾語を加えられている。この詳細化によって、血がまるで意識を持って恭しくしているような様子が表される。また、台所に現れるシーンも、単に台所とは書かず、「ウルスラがパンを作るために36個の卵を割ろうとしていた台所」という詳細化がなされている。主語と述語が文の主要な情報であるとすると、修飾語というのは本来、背景的な情報である。しかし『百年の孤独』では、本来読み飛ばすはずの修飾語の位置に、膨大な量の物語が詰め込まれている。ガルシア=マルケスはよくフォークナーと比べられるが、決定的な違いは簡潔さにある。フォークナーの人物は饒舌にしゃべるが、『百年の孤独』は短い文の中に膨大な物語が詰め込まれているのである。また、修飾語や従属節は通常、前提とされる出来事が語られるが、その部分に、「異常な」出来事が語られる。これによって、異常な出来事はあくまでもごく当然のことになる。
ここに描かれているのは、自殺した息子が、母親にその死を伝えることである。そこから読者は様々な感情も読み取ることができるだろうが、それは説明されてはいない。あくまでも出来事として伝えられるだけである。
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このように、マコンドの創始者であるホセ・アルカディオ・ブエンディアは、最期には死者とのみ語らう状況になってしまう。それも、決闘の原因となった軍鶏(しゃも)の話だ。死に際して、プルデンシオ・アギラルと完全な和解をするのは、物語の円環的時間構造とも関係があるかもしれない。
そして、黄色い花の雨が一晩じゅう降り注ぐ。そのディテールの叙述が例によって「魔術的リアリズム」である。欧米の批評では、栗の木に縛られたホセ・アルカディオ・ブエンディアをキリストのイメージに重ね、「黄色い花の雨」を救いと復活の象徴と考えるむきもあるようだ。これはキリスト教的な解釈だが、その死に際してインディオのカタウレが戻って来て、「王様の埋葬に立ち会う」と言っているし、死後の世界観も、キリスト教的というよりはインディオ的のように思われる。
いずれにしても、街を埋め尽くす黄色い花の雨による埋葬シーンは、美しいというほかない。この他にも『百年の孤独』にはたくさんの死が描かれているので、比較してみるのもおもしろい。