じじぃの「科学・芸術_513_人種的偏見・アメリカの黒人選手」

Muhammad Ali lights the the Olympic Flame at Atlanta 1996 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=80wMMFAcweQ
Muhammad Ali at 1996 Summer Olympics

『スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』 鈴木透/著 中公新書 2018年発行
人種の壁への挑戦 より
建国以来のアメリカ社会の最大の懸案の1つは人種問題であった。南北戦争奴隷制度は廃止されたとはいえ、それは人種差別の根絶を意味してはいなかった。実際、南北戦争後、南部では黒人を抑圧する様々な制度が再構築された。中でも公共の施設における人種隔離を定めたジムクロウと称される法律は、1896年に連邦最高裁判所が出したプレッシー対ファーガソン判決において合憲と認められ、人種の壁は「分離すれど平等」という論理の下、空間隔離というより陰湿な形で合法的に存続していった。人種問題の解決は、産業社会への移行した後も高いハードルであり続けた。
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ボクシングはイギリスで盛んだったため、19世紀にはすでに旧英植民地に普及し、当時のスポーツとしてはかなり国際化が進んでいた。ボクシングは賭け事の対象でもあったため、各地で法律上禁止されていた時期もあったが、1890年代には国境を越えてタイトルを争う競技になっていたのだ。国内では白人との真剣勝負を許されていなかったアメリカの黒人ボクサーが世界で活躍できれば、アメリカのボクシング界も自国の黒人選手を無視できなくなる可能性がそこにはあった。
実際、19世紀末にアメリカの黒人ボクサー界に一人の天才が出現した。ヘビー級のジャック・ジョンソンである。彼は黒人同士の対戦では無敵を誇り、黒人の世界王者として白人の世界王者との対戦を模索し始めた。しかし、白人の世界王者であるアメリカ人のジェイムズ・ジェフリーズは、黒人との対戦を拒否し、引退してしまった。するとジョンソンは、今度はタイトルを引き継いだカナダ人のトミー・バーンズを追いかけ、1908年にオーストラリアで対戦した。ここでジョンソンは勝利し、名実ともに世界王者となった。
この結果にアメリカの黒人たちは狂喜したが、白人たちは激怒した。劣等人種とみなしてきた黒人に、白人が敗れたからだ。白人側は、有望な白人ボクサーを次々にジョンソンと対戦させたが、彼はことごとくその挑戦を退けた。そこで、最後の手段として引退していたジェフリーズに白羽の矢を立て、1910年に両者は対戦した。しかし、ここでもジョンソンは圧勝し、白人側の企ては完全に手詰まりとなった。
ジョンソンの事例は、すでに国際化していた競技にはアメリカ流の「分離すれど平等」の論理が通用しないことを明らかにしたが、黒人の能力を認めることに対してアメリカ社会が極めて不寛容だったことを示している。
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イスラム教に改宗し徴兵も拒否したモハメド・アリは、反キリスト教的で反愛国的な黒人として敵視されていた。奇跡のカムバックを果したことで、彼に対する世間の印象は次第に好転してはいたが、あえて彼に名誉ある役割を与えたこの(1996年のアトランタオリンピック聖火ランナーからトーチを受け取り、聖火台に点火するという)演出は、アリ自身や差別されてきた黒人に対する償いと和解の意味を持っていた。今ではアリのイメージは、差別と闘い、良心に従って戦争を拒絶した人物、国家や国民を敵に回しても自分の信念を貫き、不屈の精神をリングの内外で発揮した人物と言う評価に変わってきている。生意気な黒人選手というかつてのイメージは影を潜め、彼の功績と正面から向き合える地点にまでようやくアメリカ社会はたどり着いたのである。
だが、現実の社会では、白人警察官による黒人の射殺事件が後を絶たないことにも見られるように、アメリカ社会から黒人差別は決して消えてはいない。