Gibraltar Breach.mov 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0xQeEgPhSfI
The Global flood, scientific proof. 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3tzSqV0RTbs
Noah's Ark First Megayacht
黒海洪水説 ウィキペディア(Wikipedia)より
黒海洪水(Black Sea deluge)は、先史時代、具体的には後氷期初期のある時点で、それまで淡水湖であった黒海が地中海と連結し、急速に海水で満たされたとき起こったとされる、仮説上の大洪水である。この説は、1996年12月にニューヨーク・タイムズに発表されて大きな話題となった。
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『気候文明史』 田家康/著 日本経済新聞出版社 2010年発行
「長い夏の到来」 (一部抜粋しています)
洪水伝説は世界各地に残っている。一番有名なエピソードは『旧約聖書』創世記にあるノアの洪水で、ノアが600歳となる誕生日の2月17日から40日40夜降り続いた雨による洪水があったというものだ。また、ギリシャ神話にも、ゼウスと弟のポセイドンが洪水を起こすものの、プロメテウスの息子デウカリオとパンドラの娘ピュラーは生き残るといったエピソードがある。さらに、司馬遷の『史記』夏本記第2の中に、堯帝時に大洪水が起き、舜帝は13年かけて堤防を完成したと記述され、日本にも東北地方では白髪水、南西諸島南端の波照間島では大津波といった言い伝えがある。その他、北方ゲルマン神話、チベットやアメリカ先住民など、世界の至るところで洪水についての伝承が残されている。一般論として、これらの伝承は、実際に起きた自然災害の教訓を長く子孫に伝えるために語り継がれたものとみられている。
『旧約聖書』創世記の洪水伝説について、その由来と思われる物語を4000年前の粘土板に楔形文字で刻まれた『ギルガメシュ叙事詩』の中にみることができる。ギルガメシュとはメソポタミアの都市国家ウルクの王の名前であり、シュメール王名表では4800年前後に即位していたと記録にある。
この『ギルガメシュ叙事詩』の11書版に洪水伝説として次のようなエピソードが書かれている。
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農業を行うには、洪水に襲われる重大な被害と引き換えにしてでも、水の利用が容易な川の近くで暮らす必要があった。当時の人々は、自然災害に恐れつつも川沿いの集落を発展させていったため、子孫への警鐘として洪水のエピソードが語り継がれていったのかもしれない。実際にメソポタミア遺跡から、ウルで6000年前、ウルクで4800年前と推定される2つの洪水層が発見されている。
しかし、洪水伝説で描かれた天変地異は、長い年月の間に起きた海進のような緩やかな変化というよりも、何かが劇的に起きた出来事のように思われる。また、『旧約聖書』で全世界が変わるきっかけになるにしては、ウル、ウルクの洪水層では役者が小さいという印象は拭えない。
コロンビア大学のウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンは、1997年に黒海にまつわる魅力的な仮説を発表した。
地中海の海面水位は、氷期と間氷期のサイクルの中で上昇と下降を繰り返していたことが知られている。
580万年前の寒冷期にジブラルタル海峡が封鎖され、地中海のほとんどが干し上がり、塩田と化すというメッシニア塩分危機が起きた。大量の塩が地中海の底に溜まったため、他の海洋の塩分濃度は大幅に低下した。その後、530万年前に地殻の移動によりジブラルタル海峡が開き、再び地中海は海水で満たされた。
黒海の場合、最終氷期極寒期以後、雪解け水が流入したことで水位が上昇し、サカリャ川からアナトリアを通ってマルマラ海へと流れていた。ところがヤンガードリアス期になると、乾燥化により降水量が減少したことでサカリャ川の入水口より水位が低下した。
1970年頃に、旧ソ連の科学者は、水位が低下して黒海は孤立し、淡水で満たされた時代があったことを発見していた。そして、1993年にブルガリアの科学アカデミーは海底に残る珊瑚礁の跡から、黒海の湖水面も上下動を繰り返しており、9800年前の黒海は淡水湖であったこと、そして湖面水位は現在の水位よりも100メートル低かったとの証拠をつかんでいた。
ライアンとピットマンも1993年から開始した調査で、音響測深技術を用いて海底の地形を調べ上げた結果、地中海から黒海に流れ込む洪水が作った峡谷を発見した。その地層から淡水湖の時代にはなかった海洋性の貝殻を採取し、放射性炭素による年代測定を行うと、渓谷が形成された年代はおよそ7600年前頃から7500年前の時代との結果を得た。ライアンとピットマンは、これらの調査結果から、地中海の海面水位が完新世の気候最適期の時代にゆっくりと上昇していき、7600年前にマルマラ海の海水が現在のポリポラス海峡の細い陸地を乗り越えて黒海に流れ込んだのではないか、との仮説を提唱したのである。
黒海沿岸には人々の集落があり、肥沃な三日月地帯から伝わった農業が行われていたと考えられる。8200年前イベントで西アジアの気候が寒冷・乾燥化したため、農業に適した黒海沿岸に多くの人々が移り住んでいたと想像できる。そして、湖畔に住む彼らに地中海に流入した海水が襲いかかったのだ。黒海の湖水面は2年間にわたって1日平均にして15センチメートルずつ上昇していったため、人々は集落を捨て、ひたすら高地に逃れるしかなかったであろう。この大洪水が洪水として人々の記憶に残り、言い伝えとなってノアの洪水伝説になったのではないか、とライアンらは考えた。
地中海の会隋が流れ込むことで黒海沿岸に大洪水が起きたとすると、この大規模な自然災害が、農業を全世界に広めるきっかけになった可能性がある。
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黒海沿岸から逃げていった人々は、西方のヨーロッパだけでなく、東の方向にも移住したであろう。黒海とカスピ海の間にあるコーカサス地方の遺跡には、高度な農業技術がいきなり出現した痕跡がある。メソポタミア文明を築いたシュメール人は、セム系語とは違う言語を用いていたことから、北方に故郷を持つ人々の子孫であったと考えている。ライアンとピットマンは、シュメール人を黒海東岸から移住した民族だと考えている。シュメール人の祖先は、タウルス山脈とザグロス山脈の丘陵で灌漑技術を発展させた農民たちであり、この一団が黒海氾濫後に農耕の技術を携えて山脈を西から越え、メソポタミアに移り住んだとみるのだ。