じじぃの「人の生きざま_747_ジョン・マッカーシー(人工知能・Lisp言語)」

ディープラーニングの仕組み〜人工知能の核に迫る〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8ph7E7PPymo
ジョン・マッカーシー 第4回(1988年) 京都賞
ジョン・マッカーシー(John McCarthy) アメリカ (1927年〜2011年) 人工知能学者。
スタンフォード大学 教授。
人工知能研究への根幹的貢献とプログラミング言語LISP」の発明。
人工知能(AI)の分野でその創成期から現代までリーダーの役割を続け、「人工知能の父」と呼ばれている科学者。計算機科学の世界における今世紀最大の発明と言われる、記号処理用プログラミング言語LISP」を創造した。
http://www.kyotoprize.org/laureates/john_mccarthy/
自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』 スティーブ・シルバーマン/著、正高信男、入口真夕子/訳 ブルーバックス 2017年発行
ハイテクのパイオニアとして (一部抜粋しています)
デジタル新時代は、1950年代後半のマサチューセッツ工科大学(MIT)で、その幕が切っておとされた。数学者でありエンジニアでもあったジョン・マッカーシーが、世界にさきがけてコンピュータ・プログラミングの学部を創設する。当時主流であった巨大なメーンフレームをもったコンピュータを活用する演算処理にとって代わるプログラムを考案する。それは創造的で、随時環境に適応することを学習し、複雑なネットワークを繋げ、それ自体が進化するというソフトウェアで、このダイナミックなコンピューティングを、彼は人工知能とよぶことにしたのだった。
黒ぶち眼鏡、ボサボサなあごひげ、モヒカンを目指した角刈りの気難しい男であるマッカーシーは、変人の多い学内でも伝説となるほどに風変りだった。考え事をしている間、猛烈な勢いでウロウロする癖があった。質問をうけると、何も言わずにただ歩き去っていき、数日後には、まるで何事もなかったかのように答えを持って突然現れた。同僚が彼に論文を読んでもらいたい時には、コピーを自分の机に残しておけばよかった。直接渡しても、かならず紛失する。見つけると大抵はだまって自分の部屋に読みに持って帰るのだった。
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人工知能に関する先駆的な活動に加え、多数のユーザーが分割されたネットワーク端末を通して、中央に集積されたコンピュータ資源へ同時にアクセスするというタイムシェアリングを彼は着想する。各家庭に端末を取りつけることを提唱し、それを介し人々が随時更新されるニュースを読み、気に入っている著者の本を注文し、航空券を購入し、ホテルを予約し、遠隔から文書を編集し、患者の診断報告を読むことで治療の有効性を明らかにすることが当たり前となる日が来ることを彼は確信していた。今日、この発想はウェブ(Web)を可能にする、広大なサーバーのネットワーク(クラウド)となって実現している。
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この分野におけるマッカーシーの最大の功績はLispの開発だろう。それはAI(人工知能)の研究者が過去に例のない現実の出来事をコードで表現できる、高水準のプログラミング言語だった。過去のプログラミング言語Fortranを除いて)とは異なり、今日まだ広く使用されている。だが一方でマッカーシーは1960年代初めには、すでにその先を考えていた。スタンフォードが教授職のポストの提供を申し出ると、彼は受託する。ケンブリッジの家を、LSDを研究している2人の若いハーバードの教授に売りはらった。ティモシー・リアリーとリチャード・アルパートという名の2人は、SF作品の並ぶマッカーシーの書斎をサイケ調の部屋に改装した。
彼は、やがてシリコンバレーと呼ばれるようになる、斬新なアイデアと技術のあふれる街で成功し、スタンフォード人工知能研究所(SAIL)を設立する。1980年代初期には、それに先立つこと10年前に予知したとおりの家で暮らすようになっていた。机の端末にコマンドを入力して、電子メールを受け取り、ラジオを聞き、遠隔のサーバーにある論文を見直し、スペルチェックをし、チェスや囲碁をし、文書をエルヴィッシュで印刷し、APが配信するニュースをネット上で検索し、世界中のプログラマーからお勧めのレストランの最新リストを受け取ったりしていた。
マッカーシー自閉症スペクトラム障害だったのだろうか? アスペルガー症候群の古典的な特徴の多くが当てはまる。無愛想ところ、1つのことへの固執、身体的な不器用さ、ストレス時に大声で自分自身を叱咤するなどだ。さらに、アスペルガーが障害の強みと考えた多くの特徴もそなわっていた。論理性あるいは複雑な機械への興味、言葉遊びの才、個人的な習慣へのこだわり、普通の人にはない問題解決能力である。しかし敢えて診断を下してもらう必要もなかった。自分の才能を発揮できる環境に暮らしていたし、周囲も彼が変人であることを許容していたからである。