じじぃの「人の死にざま_1585_ラ・フォンテーヌ(フランスの詩人)」

owl and mouse 動画 YouTube
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Hommage a Jean de La Fontaine 動画 YouTube
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ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ ウィキペディアWikipedia) より
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine, 1621年7月8日 - 1695年4月13日)は、17世紀フランスの詩人。
イソップ寓話を基にした寓話詩(Fables、1668年)で知られる。(北風と太陽、金のタマゴを産むめんどりなど)
有名な格言に「すべての道はローマへ通ず」や、ことわざ「火中の栗を拾う」を残した。-----------
『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』 金森修/著 中公新書 2012年発行
ラ・フォンテーヌ――フクロウや鹿の狡知 (一部抜粋しています)
さて、ここでラ・フォンテーヌ(1621〜95)に登場してもらおう。彼の『寓話』(1668から93年にかけて断続的に公刊)という作品は、動物の知性や霊魂を論じるわれわれにとって、当然ながら極めて興味深い資料になる。彼は1673年頃から、妻子と別れ、当時聡明な女性として有名だったラ・サブリエール夫人の元に寄宿するようになる。ラ・サブリエール夫人はサロンを開いたが、そこでは何人もの文化人がたむろしては互いに議論を闘わせていた。では、<寓話>という形に仮託して人間性をさまざまな動物の姿で描いていたラ・フォンテーヌは、<動物霊魂>や<動物機械>などについて、何か関与的な作品を残しているのだろうか。私は、以下の3つの作品を取り上げて、この話題についての彼なりのスタンスを輪郭づけたいと思う。
「ハツカネズミとフクロウ」と「ラ・サブリエール夫人への話」
まずは『寓話』第11巻の9番「ハツカネズミとフクロウ」である。但し書きで実話だとわざわざ書彼ているこの話に、私はなぜか或る種の陰気さを感じてしまう。話の筋は、フクロウが捉えてきたたくさんのハツカネズミの足を嘴(くちばし)でつつき、歩けなくした上で、それらを保存用の食料にするというものだ。フクロウは時々穀物を運んできてはハツカネズミに食べさせる。いわば生きた新鮮な餌として存続させるために、である。「なぜか」と書いたが、やはりこれは実に陰気な話ではないか! ラ・フォンテーヌとしては、この行為の中に、動物の推論と知性の例証を見て取るというつもりなのだろう。「これでも、デカルト学派は執拗に/そのフクロウを時計だ、機械だと言うがいい!」(今野一雄訳)という一節は、著者の意図を極めて直截(ちょくせつ)に言い表している。
次に『寓話』第9巻の末尾に掲載されている、その名もずばり「ラ・サブリエール夫人への話」をみる。これは複雑な構造をもち、当時の議論場全体に目配せをした、ラ・フォンテーヌ一流の哲学を表現したものだ。それは彼の動物論であると共に、人間論でもある。まず、夫人へのお定まりの礼賛の後、直ちにラ・フォンテーヌは彼が「新しい哲学」と呼ぶものの特徴づけに入る。それは獣を一個の機械だとみる発想、獣の内部では歯車が知性の代わりをしているとみる発想、要するにデカルト派のことだ。デカルト派に従えば、獣は全く考えないということになる。だが実際には、例えば鹿は、狩猟で追い立てられた時など、後退作戦、迂回作戦、替え玉戦術など、いろいろな狡知によって何とか逃れようとする。ビーバーが行う土木工事の見事さを見ても、動物が「知性をもたぬ物体」にすぎないなどとは、到底信じられない。
と、ここまではデカルト派批判である。それからは、人間の精神の特徴づけになる。動物とは違い、われわれ人間は、対象に直接規定されるわけでも本能に振り回されるわけでもない。人間は意志によって動く。意志は、肉体そのものではない、知的は源泉なのだ。このように人間精神を特徴づけた後、この小編の後半部分にネズミとキツネの逸話を入れて、改めてデカルト的な動物観を否定する。