じじぃの「人の死にざま_1580_那須・与一(平安時代の武将)」

那須与一 屋島の戦い

那須与一 ウィキペディアWikipedia) より
那須 与一(なす の よいち、嘉応元年(1169年)? - 文治5年(1189年)?)は、平安時代末期の武将。系図上は那須氏2代当主と伝えられる。父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。
一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
屋島の戦いで扇を射落とした那須与一がお坊さんになっていた? (一部抜粋しています)
平家物語」に登場する数多くの武将のなかでも、弓の名手として名高いのが、那須与一(生没年不詳)だ。
1185(文治元)年、屋島の戦いのとき、平家方の女房が、小舟の上で、扇を射るようにと手招きした。源義経(1159 - 89)の命令で那須与一がその挑戦に応じ、みごと扇を射落としたというのは、あまりにも有名な話だ。
このあと、彼は、いったいどんな人生を送ったのだろう?
頼朝の天下となったあとの与一は屋島以上の活躍をしたらしい。
那須一族が梶原景時(? - 1200)の率いる幕府軍に攻撃されたとき、与一はこれをみごとに撃退した。時の権力者の軍を追い払うという快挙を成し遂げたわけで、その後有利な条件で和睦している。
さらに彼は、なんとお坊さんになったらしい。
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彼は、1202(建仁2)年、34歳で出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りし、その2年後には、早くも法然の高弟となったというのである。
法然の弟子となった与一は、那須家からの資金を受けながら、源平の合戦で戦死した者たちの菩提を弔うため、西国を旅した。
その後、神戸市にある北向八幡神社に滞在中、64歳で、病気のやめ、高僧らしい大往生を遂げたという。