じじぃの「人の死にざま_1423_東・龍太郎」

東京オリンピック開会式 (1964年) 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=21ZG9oh7VX8
東京オリンピック2020年開催記念!!1964年五輪の貴重な映像 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=sigz8EKIgBQ
1964年 東京オリンピック

東京オリンピック 日本選手団入場

東京オリンピック ブルーインパルス

東龍太郎

東龍太郎 ウィキペディアWikipedia)より
東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年明治26年)1月16日 - 1983年(昭和58年)5月26日)は、日本の医学者・官僚。東京大学名誉教授。
東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)等を歴任した。
【人物像】
大学在学中はボート競技の選手として活躍し、その後も日本におけるスポーツ医学の草分けとなったことから、スポーツ振興に造詣が深く、都知事就任前にも1947年から1959年まで日本体育協会会長・日本オリンピック委員会委員長、1950年から1968年までIOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ1964年東京オリンピックの誘致に深く関わっている。
行政としての実績については、後に都知事となる副知事の鈴木俊一によるところが大きいと評価されることがある。東京オリンピック開催に向けたプロジェクトを軌道に乗せた功績は鈴木の手腕に依存しており、その為、「東副知事・鈴木知事」等と揶揄する向きも強かった。

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特報首都圏 「発掘“幻の日記”〜よみがえる東京五輪の真実〜」 2014年10月10日 NHK
【司会】斉藤孝信 【ゲスト】伊東四朗為末大
50年前、東京オリンピックの成功を支えた人物が、開催にいたるまでの内幕を克明に記録した“幻の日記”の存在が、NHKの取材で明らかになった。
記録されていたのは、“秘密の会合”など知られざる舞台裏だった。
日記の主は、当時の東京都知事東龍太郎、またの名を“オリンピック知事”。
http://www.nhk.or.jp/tokuho/program/141010.html
10月10日 NHK 特報首都圏 「発掘“幻の日記”〜よみがえる東京五輪の真実〜」より
東京オリンピックから50年。半世紀に渡って埋もれてきた貴重な資料の存在が明らかになりました。
オリンピックの内実を最も深く知る当時の東京都知事が残した日記です。
息子さん、「100冊近くあるかもしれません」。
取材スタッフ、「毎日書いていますね」。
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東が都知事に就任(第二代都知事)したのは東京オリンピックまで5年と迫っていた時期。
当時の東京はオリンピックを迎える状況にはなく、都心道路は人口集中による自動車渋滞が深刻化や下水道の整備率は2割ほどでした。
待ったなしの東京改造。最大の壁は予算確保でした。
総理官邸へ岸信介総理大臣を訪ねる場面もありました。
日記に記されていた「秘密会」の文字。東は直談判を繰り返し、オリンピックの重要性を説き続けました。
日記には「オリンピック返上の浮き目を見ぬように警告」の文字。
東は首都高速道路をはじめ、東京のインフラ整備を急ピッチで進めていきます。
しかし、その急速な開発が新たな課題を生みました。
住民からの反発を招きました。時に「町殺し」とまで批判されるようになりました。
それでも、東はオリンピックこそが首都・東京を国際都市に生まれ変わらせることができると信じていました。
当時、東の私設秘書だった谷古慶子は東の姿からゆるぎない思いを感じていたといいます。
「小さな島国の日本ではなくて、大きな世界の先進国の中に入って行く。そういうことをすごく思ってらしたと思いますね。信念だったと思います」。
東は戦時中、体育学校の校長でした。そのため、スポーツのあり方を歪めてしまったのではないかと自責の念がありました。
東とともにオリンピックの準備にあたった吹浦忠正は大きな世界の先進国の中に入っていくという信念を感じていたといいます。
「スポーツは彼にとって人作りの根幹、国作りの根幹。彼の根底は平和な時代を次世代に残そうと。それが彼にとっての東京オリンピックだったと思います」。
東京オリンピック開幕まであと1年と迫った昭和38年。
羽田空港と都心を結ぶ首都高速道路1号線はすでに開通。大会用のポスターの撮影も行われ、準備は着々と進んでいました。
しかし、その頃の日記には諸外国の要人との緊迫した会談の記述が目立ち始めました。
東は東西ドイツ北朝鮮、韓国、台湾、アラブ諸国インドネシアなどオリンピック参加をボイコット表明する国の対応に追われました。
欧米中心のオリンピック運営に反発するインドネシアアラブ諸国をはじめ、不参加となる国や地域が広がることを東は懸念していました。
それでも東はスポーツで培った国際的な人脈を活かし、粘り強い調整を最後まで続けました。
日記には「スポーツを政争の渦中に投ずることはしたくなし。またすべきではない」の文字。
“1つでも多くの国に参加してほしい”と、東は最後まで調整を続けました。
そして10月10日、五輪史上最大の94ヵ国の国と地域が参加した大会が始まった。東が夢見た五輪がそこにはあったのです。
「五輪知事」と言われた東龍太郎
その舞台裏を記した日記は、6年後再び五輪を向かえる我々にその意味を問いかけています。