ルキウス・アンナエウス・セネカ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AB/1253202アレーナ付近から見たコロッセウム(colosseum)の様子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3n1sd-slyUk&list=PL47FD1DBAF22DC263
ルキウス・アンナエウス・セネカ ウィキペディア(Wikipedia)より
ルキウス・アンナエウス・セネカ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。
父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
セネカ 無欲を説いた金満哲学者 (一部抜粋しています)
2000年前のローマ帝国には、人と人とが殺し合う剣闘士の試合があった。史上唯一の公認殺人競技でもある。そこでは血なまぐさく残酷きわまりない戦いがくりひろげられた。だが、たとえ非情で残忍であるにしても、苦痛や死から目をそらさない精神を鍛練する機会と見なされていた。それが戦士としてのローマ人にふさわしい心構えであった。
ところが、ひとり哲人政治家セネカだけがこの剣闘士の見世物を激しく非難している。残虐に耐える心などという口実はまやかしであり、流血の競技は否定されるべき悪徳にほかならない、とストア派哲学者のセネカは説いた。
現在のスペインに生まれたセネカは少年ネロの家庭教師であった。ネロが帝位に就くと、同郷の軍人ブルスとともに、助言者として国家の要人となる。最初の5年間は順調だった。
やがてネロはもはや御し難い暴君としての性格を露(あらわ)にしだす。さらにブルスの死とともに、セネカの影響力も失われた。ほどなく引退を申し出て、3年あまり閑職を享受している。だが、陰謀事件に関与したかどで、暴君によって自害を命じられた。おそらく無実であったが、セネカはその命令に甘んじて哲人らしく死んだ。
・
民衆のほとんどは高邁な思想をいだいているわけではない。凡夫は日々自分のまわりが安泰であればそれでいい。しかし、平穏な日々にも、いや平穏であればこそ、不安や恐れがめばえる。生きることの意味、健やかに老いること、安らかな死を迎えることなどへの問いが心に波打つ。そうした問いかけに答えて、たとえば哲人セネカはこう語る。
「人生は短いのではなく、実はその多くを浪費しているのだ。有効に費されるならば、偉大なことをも完成できるほどである」
「われわれは波にもまれながら、あのものからこのものと掴み、求めたものを捨て、捨てたものを求め、欲望と悔恨の間に右往左往している。それはわれわれが全く他人の判断に依存しているからだ」
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
ルキウス・アンナエウス・セネカ Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AB&espv=210&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_fFtUuu9LMGLkQWJy4D4Bw&ved=0CE8QsAQ&biw=1050&bih=592