訃報 演出家の蜷川幸雄さん死去、80歳…文化勲章受章者 2016年5月12日 毎日新聞
“世界のニナガワ”として国際的にも高く評価された舞台演出家で、文化勲章受章者の蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)さんが12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。
http://mainichi.jp/articles/20160513/k00/00m/040/012000c
蜷川幸雄 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=k81P0-MOESM
『アントニーとクレオパトラ』 蜷川幸雄コメント 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GRS6TFzVh10
蜷川幸雄 ウィキペディア(Wikipedia)より
蜷川幸雄(1935年10月15日 - )は、日本の演出家、映画監督、俳優。桐朋学園芸術短期大学名誉教授。
【来歴】
埼玉県川口市出身。生家は洋服店。父親は川口オートのオーナーだったことがある。小中学生時代は近所に下宿していた後の立教大学総長浜田陽太郎が家庭教師であった。
1年留年して開成高等学校卒業。画家を志して東京藝術大学美術学部を受験するが失敗し、将来の進路に迷っていたとき偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて「劇団青俳」に参加。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向する。
演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了などの現代劇から、ギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。
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『 逃げない―13人のプロの生き方』 小松成美/著 産経新聞出版 2012年発行
蜷川幸雄(にながわゆきお) (一部抜粋しています)
2011年10月1日、彩の国さいたま芸術劇場(さいたま市)で『アントニーとクレオパトラ』の幕が開いた。蜷川幸雄がウィリアム・シェークスピアの残した戯曲37作をすべて上演するというプロジェクトがスタートしたのは、彼が芸術監督に就任した1998年、24作目に選んだローマの武将アントニーとエジプトの女王クレオパトラのストーリーに、蜷川は興奮を隠さない。
「『ロミオとジュリエット』ではあるまいし、いい年した地位ある男が、政治を放り出してまでも、異国の女に入れあげるかね。若い頃の純愛は美しいけれど、年を重ねた男女の恋愛は、いっぱい具を重ねたサンドイッチみたいなもの、パンから具がはみ出してくるから、美しく儚(はかな)げには死ねないわけだよ。演出をしていると、シェークスピアがこの作品を『ロミオとジュリエット』との対比で描いているのだな、とよく分かった。そこが凄く面白かったね」
物語の舞台は、シーザーが暗殺された後の古代ローマとエジプトのアレキサンドリア。シェークスピアの作品の中で傑作とは言えないよ、と呟きながら、完成した芝居は「特別なものになった」と、胸を張った。
「クレオパトラという名前で知名度はありますが、読むと、なんだこりゃ、ひでえじゃねえか、っていう部分があるわけです。しかし、その荒唐無稽な部分を俳優が渾身の力で演じていくと、生き生きとした、けれど猥雑な大衆演劇のような面白さを持つことがあるんですね。戯曲の面白さと、上演される芝居の面白さって、ずれる場合がある。シェークスピアはそれが割と顕著なんですよ。今回はまさに、そのずれた芝居になりました。嬉しいね」
蜷川とシェークスピアの「共演」が始まったのは、1998年、蜷川が芸術監督として迎えられ「彩の国シェークスピア・シリーズ」がスタートした。シェークスピアの戯曲善37作を上演するこの企画は、もはや蜷川のライフワークとなっている。
「最初は13年ですべてを上演する計画だったんだけど、もちろん、そんなに都合良くはいかなかった。これだと、37作目はどう考えても80歳にはなるね。それまで頭脳明晰かつ病気知らずでいられるかわからないけれど、途中で降りるわけにもいかないからさ」
蜷川が演出した人生初のシェークスピアは、1974年の『ロミオとジュリエット』だった。日生劇場(東京・日比谷)で上演したこの芝居こそ、蜷川のキャリアのターニング・ポイントとなる。
アンダーグランドの世界から商業演劇へ打って出た蜷川は、俳優たちともメディアとも格闘し、声を荒げながら唯一無二のシェークスピア劇を作り上げていった。
1983年の『王女メディア』のヨーロッパ公演を皮切りに海外へも進出した蜷川の世界的な名声を決定づけたのは、1987年に英・ローレンス・オリヴィエ賞にノミネートされた『NINAGAWAマクベス』だ。演出家・蜷川幸雄の人生は、16世紀半ばから17世紀初頭を生きたイングランドの劇作家とともにある。
シェークスピアが描く人間は安穏でも静謐(せいひつ)でもない。
「彼が綴る権力争いも、家族関係も、恋愛も、格闘に似ているんですよ。常に誰かと誰かがファイトしている。そこに言葉のレトリックが加わるわけです。何しろ、表現が大げさで激烈でしょう。地獄がどうしたとか、皆殺しにするとか、目ん玉くり抜くとか、そんなことばかり言って、やっているわけですからね」
悲劇にしろ、喜劇にしろ、脚本中には作家の激情が渦巻いている。400年の時差をものともせず、それを享受し太刀打ちできなければ芝居は成立しない。劇中に生きる人の運命は過酷であり、演出家は真っ向からその運命に向き合うことのなる。
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小学校、中学校でも抜きんでて成績のよかった蜷川は、東京都荒川区にある進学校の開成高校へと進んだ。
「まあ、勉強はできたし、子供の頃から芝居は見ているし、なおかつ日がな1日シェークスピアやフランス哲学なんか読んでいるんだから、普通の高校生ではなかったね」
大人びた高校生は母に連れ出されるまでもなく、好奇心の赴くまま街に出て芝居や映画を見て歩くようになっていた。
「そのせいで落第するんですよ。その翌年は人が変わったように勉強するんだけど下級生が同級生になって『蜷川さん、蜷川さん』と呼ぶでしょう。それが恥ずかしかった。そんな些細なことが消化できなくて、孤独になる。だから『胸のうちにある思いを、1人で絵にしよう』と思うんですよ」
油絵を描く蜷川はそのまま芸大を受験するが、結果は不合格。しかし、子供の頃からの環境が、おのずと彼を芸術のせかいへと導いていった。
「絵を描いていたから芸大でも受けよう。そんな安易さだから、ああ失敗したか、という具合でね。サラリーマンは自分には無理だと思っていた。で、その頃、新劇の芝居はたくさん見ていたから、だったら今度は劇団でも受けてみようか、と考えたんですよ。やっぱり、自分が内包していると信じた創造の力をぶつける場所が欲しかったんだね。両親は『好きなことをおやり』と許してくれましたよ」
芸大の受験失敗の後、劇団青俳の芝居を見に言った蜷川は、そのパンフレットに研究生募集の告知を見つける。
「青俳の芝居をみて、木村功さんとか、岡田英次さんとか西村晃さんとかが大好きになった。あんな知的な俳優になれたら、と憧れたんです」
オーディションを受け、合格し劇団の一員になるが、端(はな)から異彩を放つ存在だった。
「研究生は、台詞を覚えていない俳優のために台詞を伝えるプロンプという仕事をさせられるんですが、小さな役を与えられた僕は『もうプロンプなんてやりませんよ』と突っぱねる。裏方もやらないで好き勝手に振る舞う俺は、木村さんから『貴族俳優』って呼ばれてね。でも真面目で従順な人たちの中で、突っ張っていた僕はかなり目立っていたから、木村さんから芝居の稽古もつけてもらったし、映画や食事に連れて行ってもらって、本当にかわいがられましたね」
しかし、何度舞台に上がっても、自分の演技に自信が持てたことはなかった。
「舞台に上がると眼はつり上がり、足は硬直する、ひどいものですよ。それに周りには、早稲田の演劇科とか、俳優座の養成所とか出た人たちがいっぱいいるから、僕なんかよりはるかに芝居を知っているわけです」
自意識が勝って下手な自分を許せない蜷川は、物凄い勢いで演劇の勉強を始めていた。
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俳優からアングラ劇団、敗北感の中でスタートした商業演劇。蜷川が今も1つ1つの芝居に命を賭するのは、挫折と孤独を知っているからだった。
蜷川の演劇界での挑戦は、さまざまな振動をもたらした。その1つがアイドルのキャスティングである。2011年10月に彩の国さいたま芸術劇場で上演された寺山修司原作の『あゝ、荒野』でも、人気アイドルグループ「嵐」の松本潤と若手俳優の小出恵介を主演に迎え、チケットは即日完売した。
蜷川は、「たかがアイドル」という批判を「単なる偏見でしかない」と切り捨てる。
「僕がアイドルを芝居に呼ぶのは、彼らが、本当に努力しているからなんですよ。中途半端な演劇人より、はるかに芝居を見ているし、ない時間をやりくりして、稽古場へ足を運び、他の人の芝居を見たり、役者と話したりしている。そうして積み上げてきたものを武器に、彼らは舞台の上で勝負するんです」
若き日の真田広之も、藤原竜也、二宮和也、小栗旬、生田斗真らも、蜷川の芝居で新境地を開いていった。
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大衆の中心にいて人びとを惹(ひ)きつける若者たちとの芝居を上演する蜷川は、同じ思いで無名の老人たちの芝居もつくり上げている。さいたまゴールドシアターは、蜷川が55歳以上の演劇未経験者をオーディションで選び、2006年に作った劇団だ。
「日本では老いていくことがマイナスととらえがちだが、人生を重ねたことで得た喜びや悲しみは、ストレートに芝居に反映されるはずだ、と思っていた。そこには若者が老人を演じても生まれないリアリティーがあるから。アングラ時代、素人という『越境者』を使って芝居をしたけれど、ゴールドシアターの役者たちもまさに越境者でね。その印象は色濃く、強烈だよ」
今、この瞬間も、蜷川は創作を休まない。それは命という物理的な時間を意識するからでもある。
「老いを実感することが、自分が今を生きている、ことってことでもあるわけだよ」
しかし、それ以上に芝居への情熱は燃え盛っている。
「もちろん、あと何年芝居を作れるのか、と考えることもあるよ。そして、演出のための思考が鋭くいられるのは、あとどれくらいかと、危惧することもある」
だが、それも一瞬のことだ。
「だって魅力的な役者に出会って、シェークスピアや寺山さん、井上(ひさし)さんたちの素晴らしい脚本を芝居にする、それ以上に面白いことなんて、ほかにないだろ」
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