じじぃの「人の生きざま_204_三浦・知良」

三浦知良 - あのひと検索 SPYSEE
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三浦知良 KING KAZU 生きる伝説 動画 YouTube
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カス フットサル 初ゴール 日本代表vsウクライナ 動画 YouTube
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世界に誇る50人の日本人 「成功の遺伝史」 2013年12月30日 日本テレビ
【MC】たけし&くりぃむ上田 【ゲスト】伊集院光劇団ひとり鈴木奈々武田鉄矢茂木健一郎山岸舞彩荒川静香HIDEBOH星野仙一、Mr.マリック、米村でんじろう、その他
人生には大きな影響を受けた人物が必ずいる…引き継がれたその熱きDNAの「遺伝」の「歴史」→「遺伝史」と名付け、スポーツ選手、映画監督、漫画家、政治家、作家、キャラクター…日本が世界に誇る話題50人のルーツを徹底解剖!
阪神・淡路大震災を経験した当時5歳のサッカー少年 香川真司。震災からしばらくして香川選手の通う小学校に三浦知良選手が訪問。この時に行われた抽選会で三浦選手のサイン入りバッグを当て、テレビでしか見たことのない三浦選手に触れ、香川選手は自分もJリーガーになりたいと誓ったという。
出会いから13年後のJリーグの試合で2人は対戦し、三浦選手は香川選手にユニフォームをプレゼントした。
香川選手は、今度は自分の番と東日本大震災では、毎年シーズンオフに被災地を訪問して子ども達を元気づけている。
http://www.ntv.co.jp/idenshi/
三浦知良 ウィキペディアWikipedia)より
三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。横浜FCに所属。2012年現在、プロフェッショナルリーグで実働する日本の最年長プロサッカー選手である。ニックネームは“カズ”、または“キング・カズ”であり、三浦を本稿では原則として「カズ」で表記する。妻は、三浦りさ子
ブラジル時代のポジションは左ウイングであったが、日本帰国後はセンターフォワードとしてJリーグで活躍し、日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ。
【評価・プレースタイル】
ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる等、活躍した。Jリーグや代表ではセンターフォワードとしてゴールを量産した。
カズといえばドリブルで、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザース(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーも、ずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにしない。守備をしっかりこなす等、献身的なプレーも見せる。
元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて堅い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「三浦知良 ファミレスに行っちゃダメだよ」 【執筆者】北澤豪日本サッカー協会理事) (一部抜粋しています)
カズさんと初めて出会ったのは1990年、僕がホームメイトとブラジルに短期留学していたときのことです。自分のプレーが、ブラジルではほとんど通用せず、自信を失いかけていたときに、スタジアムで見たのがカズさんでした。左サイドで得意のフェイントでブラジル人を翻弄するカズさんの姿に、「日本人でもやれるんだ」と背中を押された気がしたんです。
明日にも日本に帰国するという日、日本人街のサウナで偶然、カズさんと一緒になって、初めて言葉を交わしました。別れ際、カズさんは僕等に「もうすぐ帰るよ」と言ったのですが、その言葉通り、90年、日本サッカーの切り札として日本に復帰し、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)に加入。僕も1年後に読売に移籍したため、チームメイトになりました。
当時の日本サッカーはJリーグ開幕を93年に控えているとはいえ、まだアマチュアで練習環境も恵まれているとは言えませんでした。
当時のカズさんの口癖は「ブラジルではね」。例えば当時の僕らが、スパイクやユニフォームなどを自分で用意していると、「ブラジルではね、選手は荷物を持たないんだ。ホペイロという用具係がいて、すべて管理してくれるから、選手は試合だけに集中できるんだ」。
今思えば、これはカズさんなりのテクニックだったと思います。若いカズさんが、「自分で荷物を持つなんておかしい」と言えば、わがままなヤツと反感を買うだけだったかもしれませんが、「ブラジルではね」と世界一のサッカー王国を引き合いに出すことで、誰もが自然と耳を傾けるようになる。事実、カズさんが「ブラジルではね」を繰り返すうちに、みるみる環境は改善されていきました。
カズさんには、プロとしての心構えも叩き込まれました。といっても、上から目線で説教したりはしない。みんなとワイワイやっているときに、ふと「プロはファミレスに行っちゃダメだよ。あ、コンビニにもね」なんて、さらりと言う。プロ選手は、スタジアムの外でも、常にみんなの注目を集めているんだから、ダラダラしたところを見せてはいけないという意味です。
カズさんはいつもいい服を着て、いい車に乗って、僕たちみんなをいい店に連れていきました。当然、僕が「今日は払わせてください」と払ったことがあったんですが、それはもうとんでもない金額でした(笑)。
サッカー選手はピッチで活躍すればいい、そう考える風習もありますが、カズさんは違いました。彼はピッチでの90分だけではなく、プライベートな時間も最大限に使ってサッカーを世間に売り込んだのです。死ぬほど好きなサッカーで、ずっと食べていこうと思ったら、サッカーに興味のない人たちを呼び込まなければいけない――。
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98年フランスWの直前、カズさんと僕がメンバーから外されたときは、「キー、僕たちのやってきたことは、絶対に間違っていない。大事なのはこれからだ」と語りかけてくれました。カズさん自身、悔しかったに違いないのに、本当に救われました。
02年、34歳のときに引退を決めた僕は、その報告のためカズさんに電話をかけました。カズさんは「どうしてやめるんだ」とはひと言も言わなかった。
「いやいや、やるだろう」
それだけ繰り返して電話を切られてしまいました。
今にして思えば、あの「やるだろう」はカズさん自身の信念だったということが実感できる。思えばカズさんの口から、何歳までプレーしたい、ということを聞いたことがない。今もピッチを疾走するカズさんを見るたびに、あの「やるだろう」が甦ります。

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