じじぃの「科学・芸術_145_ブラジル・サッカー」

「ドイツ × ブラジル」2002年W杯決勝戦 ハイライト 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YGUMXCDkhtU
te amo regina 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aAFHabaGVtE
Cafu da Selecao de 2002.

【W杯 2014】貧困街に希望ともせ 2014年06月30日 YOMIURI ONLINE
粗末なレンガ造りの家に囲まれた体育館から、路地に歓声が響く。中をのぞくと、バスケットボールに夢中の子供たちを見守るように、壁にはサッカー・ブラジル代表元主将のカフーさんの姿が描かれていた。
ブラジル・サンパウロ中心街の南約25キロにあるファベーラ(貧困地区)のジャルジン・イレーニ。カフーさんは、ここで生まれ育った。かつては国内で最も治安の悪かった地域だ。2002年の日韓ワールドカップ(W杯)で優勝したとき、カフーさんは「100%ジャルジン・イレーニ」と手書きしたユニホーム姿でトロフィーを掲げた。自らの出自を隠すことなく堂々と振る舞う姿に、国民は感動し、希望を見いだした。
http://www.yomiuri.co.jp/photograph/zoomup/20140630-OYT8T50210.html
『ブラジルを知るための56章』 アンジェロ・イシ/著 赤石書店 2001年発行
世界を制したロマンチックなリーダー (一部抜粋しています)
日本では多くの「リーダー論」が流通しているが、ブラジル人によるリーダー論は意外にも少ない。私が把握している限りでは、ジーコが日本のサッカー界での指導経験に基づいて綴ったリーダー論の本と、日産のカルロス・ゴーンがいかに自動車メーカーを立て直したのか、その秘訣を解き明かす複数の本があるだけである。
しかし、最もブラジル人らしいリーダーは誰かと聞かれれば、私は迷わず、2002年のサッカー日韓ワールドカップでブラジル代表のキャプテンを務めていたカフーであると即答する。
あの日韓大会はブラジルの優勝で幕を閉じたが、ブラジル代表としては珍しく、個々の選手がチームのために献身して団結力を発揮したからだといわれている。しかし、それは厳しい指導法で知られるフェリッペ・スコラリ監督の統率力のおかげであり、カフーがチームを優勝に導いたわけではない。では、なぜ、私はカフーについて書きたいのか。
カフーの素晴らしさとブラジル人らしさのすべては、ブラジルがドイツに勝って5度目のワールドカップ王者に輝いた後の、表彰式で彼がとった行動に凝縮されている。
2002年6月30日、横浜スタジアム。グランドには低い表彰台が用意されていた。FIFAのプラッター会長や、サッカーの王様ペレが、優勝チームのキャプテンであるカフーに優勝トロフィーを手渡そうとしていた。どちらかといえば背が低いカフーは、プラッターとペレに向って、「この上にのぼりたい」と、原稿を置く狭い演壇をしきりに指さしていた。2人は苦笑いして「じゃあ、どうぞ」と許した。なぜか、カフーは自分がトロフィーを持ち上げる姿をより多くの人にしっかり見つめてもらいたいようだ。厳密にいえば、自分の前身を見届けてもらいたいようだ。なぜ、そんなにも目立ちたいのか。その理由は、彼がトロフィーをを持ち上げたときに発した言葉と、彼が自分のユニフォームにペンで書き込んだある言葉にあった。そして、このカフーの奇妙なこだわりは南米や欧州のメディアで詳細に報じられたが、日本緒メディアでは残念ながら軽視あるいは無視された。日本のテレビ関係者や新聞記者は、おそらく綿密な編集会議で練られた筋書き通り、ブラジルの代表選手が「サンバのリズム」に乗って優勝に酔いしれているという、予定調和的なリポートに終始した。
多くの日本人は、カフーが「ブラジル! ブラジル!」と叫んでいたといまだに思い込んでいるだろう。しかしカフーがあの歴史的な瞬間に腹の底から発したのは、「Regina,eu te amo!]というラブコールだった。ヘジーナは他でもない、彼の妻の名前である。その彼女に向けて彼は「エウ・ティ・アーモ!」(「愛してる!」)と声を張り上げたのだ。
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自分は、「ブラジル代表」ではなく、100%、ジャルジン・イレーニ(低所得者が住む地区の地名)の人間であるという主張。そして、優勝をブラジル国民に捧げるわけでもなく、監督や代表仲間に捧げるわけでもなく、自分の最愛のパートナーに捧げるという姿勢。真っ赤なユニホームで熱狂的な応援ぶりをみせていた韓国のサポーターや、暴力を振るうイングランドフリーガンを例にとって、ワールドカップナショナリズムを高揚させて危険であるという議論がわき起こっていた。しかし、カフーが世界に向けて発信したのは、陳腐な愛国心からはほど遠い、究極のローカル主義とロマン主義のメッセージであった。