じじぃの「人の生きざま_203_山口・百恵」

山口百恵 - あのひと検索 SPYSEE
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山口百恵〜最後の言葉と「さよならの向う側」 動画 YouTube
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いい日旅立ち 動画 YouTube
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三浦友和山口百恵 -Story- 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7br1qsBsKMc
山口百恵 ウィキペディアWikipedia)より
山口百恵(やまぐちももえ、1959年(昭和34年)1月17日 - )本名:三浦百惠。 日本の元歌手、女優。幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区横須賀市で過ごした。血液型はA型。横浜市立瀬谷小学校→横須賀市立鶴久保小学校卒業→横須賀市立不入斗中学校→品川中学校(現:品川女子学院中等部)卒業→日出女子学園高等学校(現:日出高等学校)卒業。
配偶者は、俳優の三浦友和(1980年11月19日結婚)。長男はシンガーソングライター・俳優・歌手の三浦祐太朗。次男は俳優の三浦貴大
活動時の所属事務所はホリプロダクション(現:ホリプロ)、レコード会社はCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)に所属。
【来歴】
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。
1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。
デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。
同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督、西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。
1976年 にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく百恵本人だった。
引退直前同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や性体験についても赤裸々につづられており、発売から1ヶ月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌年1981年に文庫化されている。
2008年、長男の三浦祐太朗が4人組ロックバンド、Peaky SALTピーキーソルト)のボーカル・ギターとして、シングル「イトシセツナナミダ」でメジャーデビューした。2010年に活動休止後はシンガーソングライターとして活動。2012年、松山千春の自叙伝を原作にした舞台『旅立ち〜足寄より〜』(2012年7月30日 - 8月3日、赤坂・草月ホール)で主演を務め、8月1日には松山のデビュー曲「旅立ち」のカバーでソロデビューした。
2009年9月、次男である三浦貴大が映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』で俳優デビューし、マスコミでも大きく取り上げられる。
2011年、母の日にちなんで2011年度「母が選ぶ理想の母」のアンケートで1位となった。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「山口百恵 大和桜は花と散れ」 【執筆者】堀威夫ホリプロ最高顧問) (一部抜粋しています)
百恵を一言でいうならば、「強い運を持っている」子でした。
そもそも歌手の登竜門番組「スター誕生!」(日テレ系)のオーディションに出場したのも、本人の意思ではなかったのです。友達の代わりに出場したのですが、歌は決して上手くないし、声も弱い。アイドルとはほど遠い「暗い」イメージでした。
それでも獲得に動いたのは事務所側の事情もありました。というのは、美空ひばり雪村いづみ江利チエミの三人娘にならい、ホリプロで三人組の女性アイドルを売り出そうというプランがあったのです。すでにスタ誕出身の森昌子、一学年上の石川さゆりがいましたから、あと一人ほしい、と。
しかも本当は、やはりスタ誕で最優秀賞を取った桜田淳子を狙っていたのです。しかし、「昌子、淳子と、同じ事務所がグランプリの子を独占するのは困る」という理由で淳子は取れず、その代わりとして百恵を取った。1972年12月のことでした。
翌年、歌手デビューしましたが、初のシングル「としごろ」は不振。そこで次の曲を考える前に、映像にシフトチェンジをはかったのです。ちょうど百恵デビューの翌74年がホリプロ15周年。付き合いのあった松竹にホリプロオールスター出演の映画企画と抱き合わせで、百恵の映画はどうかと持ち込みましたが、返事は「百恵は無理」。思案に暮れている時、「東宝の営業部長が交代しているので話をしてみたら」という情報が入ってきた。すると、その場でOKがもらえたばかりか、「正月に予定していた映画が一本飛んだので、百恵の映画を繰り上げたい」。二本立てでメインの扱いではなかったのですが、初出演がいきなり正月公開という幸運に恵まれたのです。その作品が『伊豆の踊子』でした。
蓋を開けてみると、三浦友和との共演が評判となり、大人気となりました。このときも、百恵の相手役は公募で選ばれた東大生のはずでしたが、西河克己監督が乗り気でなく、まだ無名の演劇青年だった友和に変更したのです。まさに運命的な出会いでした。
歌の方でも、第二弾の「青い果実」をきっかけにヒットを連発。「青い性路線」と揶揄されましたが、それはこちらの作戦でもありました。
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映画に歌、さらに友和とのコンビでCM、そして宇津井健さんとの「赤いシリーズ」で、テレビドラマにも活躍の場が拓ける。百恵が引退を切り出したのは、そんな絶頂期のことでした。
百恵と友和との交際は、マスコミに発覚する前から、当然、知っていました。百恵から告白されたわけではありませんが、常に接していれば感じ取れるものです。友和はあの通りの好青年でしたから、反対する理由もない。
「相談がある」と、担当者を飛び越え、百恵から私に直接、連絡がきたのは、79年の暮のことでした。私と幹部の一人を交えて食事の席を設けました。すでに交際宣言をしていたので、結婚については覚悟が出来ていましたが、同時に「引退して、家庭に入りたい」と言われたときには、言葉を失うほどのショックでした。当時、まだ二十歳。不意を突かれた感じでしたが、引き止める余地がないほど、百恵の眼差しから強い意志を感じました。
百恵が母子家庭、それも父親の存在する知らない複雑な家庭環境であることは、事務所に入る際に聞いていました。しかし、百恵自身から家庭の悩みなどを聞いたことはありません。そんなことは芸事に関係ありませんから。ただ早婚、引退の道を選んだのは、「普通の家庭が欲しい。母親を楽にさせたい」という秘めた思いが強かったのだと思います。
引退する以上、なんとしても有終の美を飾って送り出したいのが親心です。結婚・引退の日取りは百恵・友和と三人だけで練ることにしました。特にマスコミに知られることは絶対に避けなければならない。そのために、社員どころか自分の家庭にも何も言えません。本当につらい日々でした。
引退後も毎年のように復帰の話が騒がれました。私のところへも何度となく問い合わせがありましたが、私の答えはひとつ「わかりません。復帰させたい人がいるなら勝手にやって下さい」。今もたまに電話で話をしますが、復帰の話はまったくしません。私自身、復帰はないとずっと確信しています。「大和桜は花と散れ」――。百恵はそういう女性でした。

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