じじぃの「人の生きざま_194_橋爪・四郎」

橋爪四郎 - あのひと検索 SPYSEE
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日本大学水泳部80周年記念 水の覇者 日大 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=qceQNNXh0_U
フジヤマのトビウオ」活躍 1949年08月16日 毎日jp
ロサンゼルスの全米水上選手権大会で、「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進選手は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分35秒5、1500m自由形でも18分19秒0と、相次いで世界新記録を達成し、国民的英雄となった。毎日スポーツ賞、ヘルムス賞を受賞した。
http://showa.mainichi.jp/news/1949/08/post-21a9.html
橋爪四郎 ウィキペディアWikipedia)より
橋爪四郎(はしづめしろう、1928年9月20日 - )は、日本の競泳選手、スポーツ指導者。ヘルシンキオリンピック競泳男子1500m自由形銀メダリスト。和歌山県和歌山市出身。日本大学卒業。現在は橋爪スイミングクラブ代表取締役社長を務めている。
【来歴】
終戦直後の1946年、古橋廣之進に誘われて日本大学に進学。その後、世界トップレベルの記録を連発。1948年のロンドンオリンピックではメダル獲得が確実視されたが、日本の参加は認められなかった。ロンドン五輪の代わりとして日本水泳連盟が開催した全日本水上選手権大会では1500m自由形で当時の世界記録を上回る18分37秒8を記録した(当時の日本は国際水泳連盟FINA)から除名されていたため、世界記録としては公認されなかった)。
2009年8月の古橋の死去に際しては「水泳界はもちろん、スポーツ界にとって大きな存在だった。ヒロさんとともに競技できたことを誇りに思う。ご冥福を心からお祈り申し上げます」とのコメントを発表した。

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『二列目の人生 隠れた異才たち』 池内紀/著 晶文社 2003年発行
橋爪四郎 もうひとりのトビウオ (一部抜粋しています)
昭和24年(1949年)8月の新聞には、第1面にこんな大見出しが躍っていた。
「古橋驚異的世界新記録
ロサンゼルス発信の特派員報告が全米水上選手権を伝えてきた。午後2時から当地オリンピックプールで挙行。快晴、気温、水温ともベストコンディション。予選はふつう非公開だが、大会劈頭(へきとう)の1500メートル予選に「フジヤマのトビウオ」古橋と橋爪が出場するので、会場には定刻前から多くのファンがつめかけていた。1500メートル予選は16名が参加、A組に出場した橋爪が快調にとばして18分35秒7の世界新記録を樹立。つづいてB組に古橋が登場、「超人的なスピードで満場あ然たるうちに18分19秒0という人類の夢をついに現出して全スタンドをうならせた」。
この模様はラジオの臨時ニュースで全国に流された。「”オオよくやった”仕事が手につかぬ古橋君の父君」、そんな小見出しで、浜松市中島町の古橋家のよろこびが語られている。たちまち家中が、近所の人のニコニコ顔で埋めつくされた。決勝は2日後の18日、ところがあいにくその日は中島町一帯の「電休日」で、近くで実況放送が聞こえそうもないと、家族はもちろん、近所の人々もがっかりしている――。
当時は電力の節約のため、地区ごとに一定時間、昼間の電気をとめた。これを称して「電休日」。
となり合って「橋爪家の喜び」が伝えられている。
「全米水上大会開幕のへき頭早くも1500メートルの予選で橋爪四郎が世界新記録を出した報に『やった、四郎がやった』ととび上がってよろこんだのは、和歌山県海草郡西山東村吉札の四郎選手の実家、立一、登志子さんの両親はじめ、兄弟の正喜、正治、正和たちだ。たちまち集まる近所の祝辞の嵐に囲まれながら、お父さんの立一氏はボウ然と上気しながら語る……」
橋爪の18分35秒7は、前年に古橋が出した世界記録18分37秒0を破るものだった。人々は目をみはった。その30分後、古橋が18分19秒0を出して、すぐさま記録を書き換えた。
2日後の決勝で橋爪は自分の記録を3秒ばかりちぢめたが、古橋はさらにそれより3秒早く泳いだ。
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戦後の混乱期、橋爪四郎は奈良の靴下工場で住みこみの工員をしていた。単調な仕事がイヤでたまらない。将来のあてもない。そんなある日、新聞のお知らせ欄で知った。琵琶湖競泳で優勝した古橋広之進選手が、和歌山・橋本町の伊都中学に来校、模範水泳をする。「希望者は講習可」。新聞の1段3行が運命を決めた。橋爪の泳ぎを見て古橋が声をかけた。東京へ来ないか、いっしょに水泳をやろう――。内心しめたと思ったそうだ。工場から逃げ出せる。蒲団は置いたまま、着換えだけもって出奔。
「決めたら突っぱしるタチなんですネ。いつだってそうでした」
古橋を中心とする日大競泳部の猛練習はよく知られている。おそろしく粗末な食事で飢えをみたしながら、朝から晩まで泳ぎつづけた。最小のエネルギーで最大の効率は、およそ効率性とは無縁のエネルギーを費やして生み出された。
フジヤマのトビウオの全盛期は昭和23年と24年だった。翌25年、南米に遠征。リオデジャネイロのホテルで、古橋は禁断の水を飲み、アメーバ性赤痢をかかえこむ。8月、神宮ポールを舞台に日米対抗1500メートルでは、アメリカ人フォード・コンノに惨敗。
昭和27年(1952)、ヘルシンキ・オリンピック大会代表選考会の400メートルで橋爪優勝。古橋は3位だった。初めて古橋に勝ったが、よろこびはない。
ヘルシンキ大会準決勝、古橋は最下位の8位で決勝進出。故国のだれもが奇跡の復活を信じていた。フルハシの不敗神話はいぜんとして健在だったが、神話はしょせん神話である。結果は準決勝のタイムどおり最下位。橋爪は1500に賭けた。古橋と並んでではなく、フォード・コンノの隣で泳いだ。逃げきりの作戦でとび出した。しかし1000メートルで肩が並んだ。同じように美しい、音なしのフォームが2つ、しばらく並行した。やがてコンノは前方へ見えなくなった。

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