じじぃの「人の死にざま_1044_つか・こうへい」

つかこうへい - あのひと検索 SPYSEE
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「嫁ぐ日'84」つかこうへい氏追悼 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_c1Wfv_xHnk
池田成志 主演 つかこうへい作:演出 熱海海殺人事件'92 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FfcotjE0Ldk
つかこうへい ウィキペディアWikipedia)より
つか こうへい(本名:金峰雄〔キム・ボンウン〕、日本国内での通名:金原峰雄、国籍:大韓民国、男性、1948年4月24日 - 2010年7月10日 )は、日本の劇作家、演出家、小説家。 福岡県嘉穂郡嘉穂町(現・嘉麻市)牛隈生まれ。 三男一女の二男。 血液型A型。 生前は東京都北区に在住し、同区のアンバサダーも務めた。
【受賞歴】
・1973年、岸田國士戯曲賞を、当時最年少の25歳で受賞 (戯曲『熱海殺人事件』)
・1976年、第14回ゴールデン・アロー賞演劇賞受賞 (舞台『ストリッパー物語』、『熱海殺人事件』)
・1980年12月、第15回紀伊國屋演劇賞団体賞受賞 (舞台・つかこうへい三部作『弟よ!』、『いつも心に太陽を』、『蒲田行進曲』)
・1982年1月、第86回直木賞受賞 (小説『蒲田行進曲』。同作は深作欣二監督で映画化され大ヒットした。)
・1983年、第6回日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞(映画『蒲田行進曲』)
・1990年、第42回読売文学賞受賞(小説『飛龍伝'90 殺戮の秋』)
・2007年、紫綬褒章受章。
・2010年7月10日、旭日小綬章(追贈/勲記日付は逝去日に遡る)。

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『もし、日本という国がなかったら』 ロジャー・パルバース/著、坂野由紀子/訳 集英社インターナショナル 2011年発行
1960〜70年代に現れた革命児たち (一部抜粋しています)
1960年代の日本文化も、1972年2月に軽井沢の「あさま山荘」を機動隊が包囲したときに、いったんその歩みを止めました。急進的な学生運動はこれを機に終りましたが、そうでなくても「内ゲバ」と呼ばれる内紛によって終焉を迎えていたでしょう。この事件に続いてオイル。ショックが起こりましたが、日本はそのおかげで目を覚まし、世界における自らの位置を再認識することとなりました。またもや日本人は、国が成長と繁栄を続けるために、あくせく働くことを求められるようになりました。もう反逆している暇も、反逆を支えた文化にかかずらっている暇もありません。
もちろん、ある時代の文化というものが、ある日突然に終るわけではありません。安い錠前のように、カチリとロックされたらもうおしまい、というわけではないのです。唐十郎は戯曲を書き続け、紅テントで全国をまわって新作の上演を続けました。大島渚は、戦争が国民の精神にもたらす荒廃をテーマにした、彼の最高傑作に数えられる2作品を撮りました。1971年の『儀式』、1976年の『愛のコリーダ』です。『愛のコリーダ』の現像はフランスで行われました。当時の日本映画が受けざるを得なかった検閲を避けるためです。
1970年代に「つかこうへい」という、演劇界を代表する表現者がまた現れたことは、ある国の文化というものが、10年を1区切りとするような、手軽なわかりやすい単位で盛衰するわけではないことの証明にもなっていましょう。文化の時代には、人間の世代と同じように、重複もあれば、矛盾もあるのです。
ぼくがつか こうへいさんに会ったのは70年代の前半で、そのころ彼の劇団には、のちに個人で活躍するようになる加藤健一と三浦洋一がいました(つか こうへいと仕事をした俳優の名前をあげれば、そのリストは長くてきらびやかなものとなる)。彼らはいつも池袋小劇場のような、小さな小屋で芝居をしていました。しかし、つか こうへいが劇作家としてすごい才能の持ち主であることがすぐにわかりました。
当時のつかさんは、ちょうど1950年代、60年代のイギリスの劇作家たちと同じ「怒れる若者」でした。1956年にジョン・オズボーンが書いた芝居の題名「怒りをこめてふりかえれ」がすべてを物語っています。つかさんは、大きな怒りをこめて、日本の歴史と社会とを振り返っている人物でした。
そのころはまだ、つかさんが韓国籍であることはあまり知られていませんでした。彼は在日韓国人2世で、本名は金峰雄と言いました。『熱海殺人事件』『郵便屋さんちょっと』『演奏で死ねなかったお父さんのために』などの作品に見られる彼の怒りや、日本社会に対する皮肉たっぷりの視線は、彼の出目と深い関係があったのです。しかし、まだあのころは、自分が在日韓国人であることをカミングアウトする人はあまりいませんでした。つかさんの芝居は日本で大ブームを巻き起こし、1970年代後半にはつかさん自身も有名になり、VAN99ホールのような大劇場での公演が可能になり、そこで上演された『ストリッパー物語』は大ヒットとなりました。
しかし残念ながら、つかさんは、日本で最初の「異民族劇作家」になりませんでした。彼なら、日本人の韓国人に対する根深い差別意識を暴くこともできたのに。なぜそうしなかったのか。理由の1つは、彼が日本人劇作家として認められたかったということでしょう。ぼくにはその気持はとてもよくわかります。もう1つの理由は、日本社会ではまだ、民族の問題をあげつらう人間を歓迎しない雰囲気が濃厚だったことです。こんなとき、「物議をかもす」というフレーズが思い浮かびます。もし自分は韓国籍だと宣言したり、その事実を誇るような発言をしたりすれば、それだけでも「物議をかもす」ことに当たったのです。
この問題について日本は、めざましい変化を遂げました。いまでは在日韓国人の多くが本名を名乗るようになりましたし、また日本に住む少数民族全般にかんするオープンな議論の機会も、以前に比べればはるかに増えました。日本の駅構内の表示も、英語だけでなく、韓国語や中国語を併記するようになっています。
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慶応大学を中退し、自分の演出スタイルを確立したつかこうへいならば、そんな暗黙のルールを破ってもよかったのではないか。そうすれば、あるいは状況を変えられたのかもしれません。つまり彼ならば、日本人と在日韓国人との関係の問題を、公の場に持ち出すこともできたでしょう。あるいは、在日韓国人が日本人のおかげで公私ともに経験させられてきた苦難について、日本人に教えることもできたかもしれません。

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