じじぃの「人の生きざま_141_中島・みゆき」

中島みゆき - あのひと検索 SPYSEE
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中島みゆき ♪ ヒット曲 メドレー 動画 YouTube
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「時代」中島みゆき 'Jidai' Miyuki Nakajima [TeeOG3 vocal cover] 動画 YouTube
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中島みゆき ウィキペディアWikipedia)より
中島みゆき(本名:中島美雪(読み同じ)、1952年2月23日 - ) は、日本の女性シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。暗く重い作風とラジオ番組などでの明るい語り口とのギャップで1980年代前半に大きな人気を博し、現在も根強い支持を受け続けている、日本を代表するシンガーソングライターの一人。公式ファンクラブ名は「なみふく」である。
オリコンで4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」、1990年代:「空と君のあいだに」、「旅人のうた」、2000年代:「地上の星」)唯一のソロ・アーティストでもある。
【経歴】
祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は産婦人科医。札幌市に生まれ、5歳のときに岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。帯広に移り、帯広小学校を卒業。帯広第三中学校に入学。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業。
帯広柏葉高校3年生の時、文化祭で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする。
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードから晴れてレコード・デビューを果たす。1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した。「時代」は12月にセカンド・シングルとして発売。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。
1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「あばよ」が大ヒットし、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。職業作曲家・作詞家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。
1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。いずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めた。『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。
2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦への出場も決まった。中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となる。

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文藝春秋 2011年10月号
現代の家系 「中島みゆき―悲しき父への鎮魂歌」 【執筆者】石井妙子 ノンフィクション作家 (一部抜粋しています)
彼女は昭和27年2月23日、北海道札幌市で生まれている。
札幌医科大学産婦人科医の立場にあった父が、突如、その地位を捨てて、岩内の協会病院という小さな総合病院に赴任することになり、両親、弟とともに移り住んだ。昭和32年のことだった。協会病院の看護婦であったという女性が語る。
「『今度やってくる中島先生は、本来、こんな田舎町にいらして下さるような方ではないんだ。札幌の大学病院で講師をなさっていたほどの方だ』。私たちは、そう聞かされていました」
みゆきの父は、札幌から地域医療に身を捧げたいと考え、この町にやってきたようである。
念願どおり、漁に生きる人々の生活に密着する医者となり、中島家は町の人々の尊敬を集める存在として、幸福な家庭生活を築いていった。
だが、やがて降りかかった不幸のために、一家はこの岩内の町から去ることになってしまう。
それはまた、中島美雪が「中島みゆき」となる原因であるともいえるのだが、それに触れる前に、まずは中島家の歴史を振り返りたい。北海道との縁は、祖父の代から始まったものだ。
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大学を卒業すると、札幌からも離れ帯広の実家に戻り、父の病院を手伝うようになる。まだ、谷川俊太郎の詞から受けた衝撃が収まっていなかった。
「あのとき谷川さんの詩に出合って、正直きって歌う意味を問われなかったら、きっと舞い上がったまま、どっかにいっちゃっていたでしょうね」
だが、父の仕事を手伝う中で、「私が歌う理由」の答えを得る。
翌年の昭和50年5月、美雪は、ニューミュージックの登竜門ともいえるヤマハ音楽振興会が主催する第9回ポピュラーソングコンテストポプコン)に出場し、「傷ついた翼」で入賞を果たした。
その後、シングルデビューの話がまとまり、キャニオン・レコードからファーストシングルを発売する。局名は「アザミ嬢のララバイ」。発売日は9月25日だった。
ところが、レコードが発売される直前に大変なことが起こった。
16日、父・眞一郎が脳溢血で倒れたのだ。帯広の第1病院に運ばれたが、昏睡状態が続き、覚悟して欲しいと医師に告げられる。
父の意識が戻らない中で、美雪は、翌10月、かねてより出場することになっていた、第10回ポピュラーソングコンテストに出場するため、父の病室からギターを下げて会場に向かった。
この時、歌う予定だった曲を急遽変更する。父が倒れてから、作った歌に。それが「時代」だった。
 今はこんなに悲しくて
 涙も 涸れ果てて
 もう二度と笑顔には
 なれそうもないけど
 そんな時代もあったねと
 いつか話せる 日が来るわ
                   (中島みゆき 作詩)
一般には失恋の歌と思われている。だが、実際には「時代」は、父が倒れ、助かる見込みがないと告げられた中で、作られた歌であった。
美雪は、この曲で見事、グランプリに輝いた。
そればかりでなく、翌月の第6回世界歌謡祭に日本代表として出場し、ここでも各国の代表者を制して、「時代」で優勝を果たすのだった。
音楽祭はテレビで放映され、その結果は、新聞にも大きく報じられた。
テレビで音楽祭を見ていた帯広の同級生たちは目を疑った。これは、あの中島美雪なのか、と。
岩内の同級生たちも、ピアノやバレエを習う大人しい少女だった美雪の変貌に驚いたと語る。
だが、その活躍を、父だけは見ることができなかった。
街に、美雪の歌が溢れる中で、年明けの昭和51年1月4日、眞一郎は旅立つ。享年、51――。深い雪の日のことだった。
武市と眞一郎の妻による連名で、「葬儀は帯広では行わず札幌で済ませた、新年早々のことなので死亡の通知を遠慮した」という、いささか不自然な文面の、小さな死亡広告が地元紙に載ったのは、1月7日のことだった。
「父が亡くなった時、うちには貯金が10万円しかなくて困った。その時、私の歌がお金になったので助かった」と、美雪は後に述べている。
武市と美雪たち家族の間には、やはり距離があったのであろう。
美雪は、父の死後、「中島みゆき」として、本格的にプロデビューを果たす。同年には研ナオコに提供した「あばよ」が大ヒット。さらに翌、昭和52年には自身が歌った「わかれうた」がオリコンで1位になるという快挙を得た。「中島みゆき」は、こうして一気に階段を駆け上がっていったのだった。
そんな中で、昭和53年7月16日、祖父の武市が亡くなった。享年、82であった。
眞一郎の密葬とは違って、市を挙げての盛大な葬儀が執り行われた。
      ・
岩内での幸せな生活がそのまま続いていたならば、おそらく中島美雪が「中島みゆき」になることはなかったであろう。一家の背負った重き荷が、彼女に歌を授けたのだった。
そう考えると、父の死と、彼女の華々しいデビューは偶然ではないように思えてくる。
何を失ったことにより、何を得ることになったのか。彼女ははっきりと、見据えているにちがいない。
岩内にも、帯広にも、足を運ばず、懐かしい景色や、懐かしい人たちにも会おうとしないのは、「故郷が嫌いだから」などという理由ではなく、「中島美雪」に還ってしまうことを、自ら戒めているからではないだろうか。
あるインタビューで、自分が歌で訴え、伝えたいと思っているのは「生命力」と、答えている。
そのせいか、近年、特に人生を鼓舞し応援する歌が増えているように思う。それもまた、彼女が「年々と強まる」と書いた父への思いによるものだろうか。失意の中に生きた父、その命を生かし切れなかったという思いが、彼女の中にくすぶり続けているように思えてならない。
何かを得ようとしてもがき、奮闘し、傷ついた人々へと寄り添う歌は、振幅の激しい人生を歩んだ父祖、とりわけ父への鎮魂歌のようにも聞こえてくる。

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