じじぃの「人の死にざま_849_辰野・金吾」

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東京駅赤レンガ駅舎を報道公開 創業時の風格ある姿に 2012.9.24 MSN産経ニュース
赤レンガ駅舎の愛称で親しまれてきた東京駅丸の内駅舎を約100年前の開業時の姿に復元する工事がほぼ終了し、駅舎内部が24日、報道陣に公開された。昭和20年5月の空襲で焼失したドームや駅舎3階部分などが再現され、大正3(1914)年創業当時の風格ある姿がよみがえった。
今回公開されたのは、10月1日にグランドオープンを迎える赤レンガ駅舎と、10月3日に開業予定の東京ステーションホテルなど。特徴的な南北ドームは、レリーフや彫刻がちりばめられ、ホテルは全面改装され、シャンデリアや白壁など欧州スタイルに一新された。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120924/trd12092411210009-n1.htm
辰野金吾 ウィキペディアWikipedia)より
辰野金吾(たつのきんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日)は、日本の建築家である。
工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。 帝国大学総長渡邉洪基(渡辺洪基) の意向を受け、工手学校 (工学院大学) の創立(明治20年)を推進し、運営にも尽力した。
東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子である。
【経歴】
1854年嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県唐津藩の下級藩士姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる。姫松家は足軽よりも低い家格であった。
・1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となる。
1873年明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
1880年明治13年)英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ。
1886年明治19年帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。
・1914年(大正3年) 中央停車場 (東京都千代田区重要文化財/現・東京駅、東京ステーションホテル)完成。
・1919年(大正8年) 国会議事堂の設計競技で審査員を務める。当時大流行したスペインかぜに罹患し死去。
東京駅 ウィキペディアWikipedia)より
東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道JR東日本)・東海旅客鉄道JR東海)・東京地下鉄東京メトロ)の駅である。
【歴史】
1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。施工は大林組が担当。
日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月18日に開業した。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、『東京駅』と名付けられた。
1919年(大正8年)に中央本線が、1925年(大正14年)に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4年)には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していった。
1929年(昭和4年)には八重洲口が開設された。1948年(昭和23年)にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工したが、翌1949年(昭和24年)に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)に駅舎が建て替えられ、八重洲本屋が完成した。八重洲口はその後も順次改築されて百貨店が出店し、地下街が拡がるなど賑やかになってゆくが、丸の内側はレンガ造りのままである。

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『東京駅の建築家 辰野金吾伝』 東秀紀/著 講談社  2002年発行 (一部抜粋しています)
英国留学
明治12年(1879)12月5日、新妻お秀、養父母、実の父母、鳥羽家の人々ら親戚一同に見送られて、辰野金吾唐津を発った。それから、ほぼ1ヵ月にわたって、留学の手続きや準備を東京でするためである。
金吾が仲間の留学生たちと横浜港を出港したのは、明けて明治13年2月8日のことであった。
その前日、彼は故郷の養父母に宛てて、次のような手紙を書いている。
≪小生ようやく準備も整い、仏蘭西(フランス)船ヴィォルガ号に乗り組むこととあいなり候。一行は高峰譲吉(化学)、南清(土木・鉄道)、石橋絢彦(土木・灯台)、志田林太郎(電信)、高山直質(機械)、三好普太郎(機械・造船)、荒川新一郎(機械。紡績)、小花各吉(冶金)、近藤貴蔵(鉱山)、栗本簾(同)及び小生の合計11名にて御座候≫
淡々とした調子ながら、金吾の興奮が窺(うかが)える。結局、土木学科、機械学科、鉱山学科などは学生が多く、専門も文化している上に、日本の近代化に当面最も重要であると判断されて、2名が留学生に選ばれている。
この手紙で故郷の人々には金吾の出発予定が分かったわけだが、ただ1つ物足りない点が残されていた。それは手紙の最後が、
≪両親皆々様ご健康には留意されんことを御願い奉り候≫
と結ばれたまま、お秀には何の言及もされなかったことである。
「金吾は、私たちに遠慮して、お嫁さんであるあなたには何も書かれなかったのですね」
「御一新で時代も変わったのだから、遠慮せずともよいのにな」
養父母は気を使うが、お秀は、
「いいえ、わたしは気に致しません」
と、微笑を返した。しかし、新しい夫となって、すぐ旅立ってしまった人が、全く気が利かぬ朴念仁(ぼくねんじん)であるのを再確認したことが、悲しくない筈がない。
「2月8日というと、今日が10日だから」
と、宗安が言う。
「もう横浜を発って、ちょうど九州沖を過ぎている頃だな」
中央停車場
中央停車場が起工した明治41年2月の秋、辰野葛西事務所に、2人の訪問者があった。
工事が始まったといっても、未だ気その部分なので、上物(うわもの)は設計の真っ最中である。東京の事務所は辰野以下、皆が中央停車場にかかりきりで片岡安の受け持っている大阪の事務所は奈良ホテル、浪速銀行、浜寺停車場、神戸商品取引所、三十四銀行広島支店など、さまざまな建物の設計を行なっている状況であった。
そんなある晴れた日、第9号館の前に、2台の人力車がとまった。各々の覆(おお)いがとれて、中から現れたのは50代らしい紳士とそれより4、5歳年下の貴婦人であった。ただ、男が婦人に払っている敬意からみて、夫婦とは見えない。むしろ女性の方が、身分が高いような印象である。
紳士の方が、向かいの8号館にある中央停で昼飯を済まして戻ってきた興作たちに声をかけた。
「辰野先生はおられるかね」
ふり返ると、紳士は曽禰達蔵であった。先年、定年の55歳で三菱をやめてからも、なお建築顧問として丸の内計画に関わっている。郷土で後輩にあたる金吾を「先生」と呼ぶのは、2人の地位の差ではなく、達蔵らしい謙虚さのあらわれであろう。
       ・
停車場の南北の距離は170間(約300メートル)余りだから、100分の1でも2間近くなってしまう。そこで模型としては、200分の1でつくったのだが、それでも普通の女性の背丈ぐらいあった。
最近ようやく設計が固まり、急ぎつくらせたのである。天皇や首相への説明も、金吾自身がこの模型で済ませたばかりだった。
「これは実はドイツ人技師であったフランツ・バルツァーの設計をもととしているのです」
金吾は率直に、自分が関与していなかった頃の計画から語りはじめた。
功のすべてを自分が得たいという意識が、彼にはあまりない。よい設計をしたい野心はあるものの、それはむしろ内なる向上心からきている。その点、金吾の気持ちはよく誤解されやすいが、多恵子と曽禰という今日の相手は、よく分かってくれそうだ。
「これが、そのドイツ人が描いた平面図です」
改まった声でそう言った金吾は、事務所の引き出しに収めている大きな図面を、応接室のテーブルの上に広げるよう、松井に命じた。
「菓子かに、基本的には君の案と似かよっているね」
達蔵の言う通り、細長くて南口が乗車口、北口が降車口、中央が帝室用の出入り口となっているところなど、模型とは基本的には同じである。
「乗降客の動線が明確に分離されていて、混乱することがない、如何にも、ドイツ的だな」
「そう、誠に立派なものです」
金吾も感嘆する。バルツァー案の思い切りのよさに、共鳴するところも多かったのであろう。
       ・
金吾は雄弁になった。彼は興作に、現在の案に至るまで、自分が描いた3つのスケッチを出すように命じた。
「これが最初に私が考えた案です」
そこで彼が出したのが、後に「第1案」と呼ばれるものである。バルツァー案の山車のような和風の外観は抹消され、ビクトリア朝の洋風スタイルの変更されている。また独立していた3棟も、1つの建物にまとめあげられていた。バルツァー案を平面図としては踏襲しながら、外観として全く異なる様式に変えているところに努力があらわれている。
「しかし、これでは未だ建築としては不十分だ、とわたしは思いました。長大な駅を無視して1つにまとめあげるため、横長になったまま、幾つかの建物が寄り集まっている観は拭えません。もっと1つの建築として威風堂々としたものにしなければ、帝都の玄関という、日本人が中央停車場に託した夢は実現されぬまま終わってしまうからです」
たとえば、階数を増やして、建物全体を高くしてしまったらどうか。そうすれば縦と横の比例が普通になり、まとまりもつく。
「しかし、長さ170間以上の建物を1階分高くする案は大変な出費となり、とても許されることではありません。予算は42万円と決められていたからです」
そこで金吾は中央の帝室用口ドームの上に、高い塔を建てる絵を描くこととした。
「これがその案です」
しかし、この「第2案」も中央棟の印象は強調されたが、両翼の棟は大きいままで、かえって各棟が独立した感じとなった。これでは全体の調和が乱れた上に、一番大事な中央部が灯台天文台のように見えてしまう。
――高い塔だと、恐れ多くも、皇居を見下ろしてしまうのではないか。
と、危惧する者さえいる始末。この程度の高さで、そんな筈もないのだが、批判の声が出ること自体、金吾には心外であった。
「でも、この案はまだ模型とは違うわね」
「ええ。昨年末になって、政府の方で、大きな変化があったのです」
金吾の声が明るくなった。
時あたかも、第1次西園寺内閣に代わって第2次桂内閣が発足し、従来の内務省帝国国鉄道庁と逓信省鉄道局が統合されて、内閣直属の鉄道院が設置された。満鉄までも含む鉄道全般の行政を所管する、この鉄道院の総裁に就任したのが、実力者の後藤新平である。後に、「大風呂敷」という渾名(あだな)で知られる後藤は、日露戦争に勝った国家の威信を記念して、中央停車場をもっと壮大な計画に見直すよう、金吾に指示し直したのだった。
こうして平屋の計画が2階に、さらには3階にすることが認められ、3つのドームの軒の高さがそろった堂々たる中央ステーションの計画ができあがった。増床された部分は、ホテルとすることが決められた。
さらに僅か42万円であった建築予算も、本屋のみで287万円と、約7倍にまで増やすことが認められている。
       ・
中央停車場すなわち東京駅が工事を終えたのは大正3年(1914)12月であった。
明治41年3月に基礎工事を着工して以来、当初4年の予定だった工期が6年半に延びている。ただ竣工といっても、駅舎本屋だけで、南側の2、3階に予定されているステーションホテルは未だ出来上がっていない。
そして鉄道関係者にとっては、問題は未だこれからだ、と興作は聞いていた。横浜までの切符も刷り上がっておらず、開業式典に走らせる新式電車の試運転も終っていないという。
(果たして、このような状態で大丈夫なのだろうか)
と不安を覚えてしまう。
ただ、いつも建築工事現場を共に歩き回った金吾先生と一緒に、見て回ると、
(まあ、何とか、うまくいきそうだ)
と、思えてきた。
明日すなわち12月18日の式典に向け、駅のプラットフォームの鉄柱は赤と青のモールで巻かれ、天井には万国旗が張り巡らされている。敵国となったばかりのドイツ国旗だけは省かれていて、さすがに手抜かりはない。
そしてこの2ヵ月間揉めつづけていた中央停車場の正式名称も、今月5日の鉄道院告示によって、開業と共に「東京駅」と改称されることになった。

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