ハンニバル - あのひと検索 SPYSEE
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Hannibal Barca Part 1 動画 YouTube
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Rome Total War - Carthage Intro 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=j8J1xxitkbw
ハンニバル フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
ハンニバル・バルカ (Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年) は、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。
第2次ポエニ戦争を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最大の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高い。
【アルプス越え】
紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめハンニバルの軍勢は歩兵 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、騎兵 12,000(ヌミディア兵主体)、戦象 37 頭、カルタゴの伝統通り将官以外は全て傭兵だったという。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵 10,000 人、騎兵 1,000 人をピレネー山脈からエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。ハンニバルの軍勢は歩兵 50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭となった。これを率い、ハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。
ローマはハンニバルのピレネー越えに気付いたが、ガリアの深い森林のために、すぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。戦象も 30 頭は健在だったようである。この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。索敵していたローマの執政官、プブリウス・コルネリウス・スキピオが現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、アルプス山脈に向かっていた。
このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にして行軍をはじめた。途中で遭遇したガリア人には「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵 20000 、騎兵 6000 にまで減ったが。
ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第2次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争、紀元前218年 - 紀元前201年)の始まりであった。
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『井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
強大な国家に抵抗した勇将 ハンニバル (一部抜粋しています)
英雄とは必ずしも帝王であるとは限らない。強大な国家に対して徹底的に抵抗した、いわは抵抗勢力の長も、英雄には違いないからだ。
そうした英雄の中で最も著名な男が、古代カルタゴの勇将ハンニバルである。
カルタゴは現在の北アフリカの一角にあった、フェニキア人の通商国家であった。
船団をあやつり地中海を自分の庭としたフェニキア人は、古代において最も裕福な民族であり、その国家であるカルタゴも富み栄えていた。
だが、その繁栄を妬む者がいた。
軍事大国ローマである。紀元前8世紀に建国されたと伝えられるローマは周辺国家を次々と征服し植民地化していた。後の話だがユダヤ人の祖国イスラエルもローマの植民地とされ、イエス・キリストの処刑と復活は、この植民地化時代のイスラエルで起こった出来事である。
ローマはカルタゴの持つ地中海菩王駅の利が欲しかったのか、それともそもそも他の周辺諸国と同じように傘下に収めようとしたのか、まず当時はカルタゴの勢力圏であったシチリアへ兵を送り、これを奪取した。
第1次ポエニ戦争(前264〜前241年)である。「ポエニ」とはラテン語で「フェニキア人」のことだ。
この戦いにカルタゴは敗北した。
しかし、カルタゴも負けてはいない。将軍ハミルカル・バルカの息子ハンニバルが、父の死後25歳の若さで将軍に選ばれ、ローマ攻略を計画した。
バルカ一族は、現在のスペインのあるイベリア半島南部を勢力下においていた。このカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)からなら、海を渡らず陸づたいにローマを突くことができる。第1次ポエニ戦争の敗北によって、カルタゴはシチリア、サルジニア等を失っていたから、この戦法しかなかったともいえる。
だが、ローマは安心しきっていた。なぜなら、イベリア半島からローマへの道には、アルプスという巨大な障壁が立ちはだかっていち。一人二人の旅人ならいざ知らず、大軍でアルプス越えなどできるはずがないと誰もが考えていたのだ。
だが、不可能を可能にするのが英雄である。
ハンニバルはアフリカ育ちの象を擁した部隊すら引き連れて、見事アルプス越えに成功しローマに肉迫した。
あわてたローマ軍はイタリア半島の付け根にあるトレビア、あるいはローマの東カンナエでカルタゴ軍を迎え撃ったが、カルタゴ軍は強くローマ軍は壊滅的な打撃を受けた。一説に死者5万人とも伝えられるほどだ。これすべて、名将ハンニバルの指揮による戦略の勝利であった。
問題はこの次の第2次ポエニ戦争(前218年)において、ハンニバルはイタリア半島内でローマ軍を撃破したのに、ついに首都ローマに攻め込まなかったことだ。これは世界史の謎の1つであって、未だに定説がない。
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そして、そのローマにかってのハンニバルに勝とも劣らない軍事の天才が出現する。
スキピオである。
スキピオは26歳で将軍となり、まずイベリア半島のカルタゴ・ノヴァを陥落させた。ローマ元老院は、南イタリアを占領していたハンニバルと当地で決戦し、その血を回復することを望んだが、スキピオはこれに異を唱えた。
そんなことより、敵の本拠である北アフリカのカルタゴを突くべきだと言うのである。元老院の危惧をよそに、スキピオはカルタゴ本国に上陸して連戦連勝する。危機感を抱いたカルタゴはハンニバルを南イタリアから呼び戻した。まさにスキピオの思惑どおり、南イタリアは無血でローマの手に落ちた。そして前202年、カルタゴ西方のザマで、両軍は最後の決戦を行う。
スキピオはハンニバルの手の内を研究し尽くしていた。一方、ハンニバルはこの若い将軍がどんな手並みを持っているかまったく知らなかった。ハンニバルは地の利を生かせず敗れた。
結局、カルタゴは降伏文書に調印し、海外領土をすべて失い、巨額の賠償金を支払うことを約束せざるを得なかった。しかも国内に親ローマ派が台頭し、暗殺の危険を感じたハンニバルは海外に亡命せざるを得なかったが、流浪の末ついにローマの圧迫から逃れられず自殺した。
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Hannibal Barca Google 検索
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