じじぃの「人の死にざま_677_沢田・美喜」

沢田美喜 - あのひと検索 SPYSEE
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澤田美喜」 展 Miki Sawada 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ChiVB3aQDBs
vol.22 沢田美喜(上)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man22.html
系図でみる近現代 第16回 エリザベス・サンダースホーム 澤田美喜 岩崎久弥 安田祥子
http://episode.kingendaikeizu.net/16.htm
『帰郷〜アマゾン開拓の夢、その果てに…〜』 2013年8月24日 BSフジ
けられる形で神奈川県大磯町の「エリザベスサンダースホーム」という孤児院(現在は養護施設と呼ばれている)に幼くして引き取られた子供たち。
第二次世界大戦後に設立された子供たちの家の創設者は、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の孫娘、澤田美喜。最初の子供達がホームを巣立つ年齢に達した頃、日本は高度経済成長への道を突き進み始めていた時代。しかし、子供たちの前に「就職差別」という大きな壁が立ちはだかった。戦後20年経過しても尚、社会の偏見は強かったのだ。
その打開策として澤田園長が計画したのがまだ移民を受け入れていたブラジルでの農園建設。父親の膨大な遺産をつぎ込んだ澤田美喜。しかし、開園から10年経たないうちに農園は閉鎖となり若者たちはちりぢりになった。
http://www.bsfuji.tv/top/pub/kikyou.html
沢田美喜 ウィキペディアWikipedia)より
沢田美喜は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
【略歴】
・1901年9月19日:三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。岩崎家の宗教は真言宗だった。
・1916年:東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を中退し、津田梅子らの家庭教師について学習。
・1922年7月:クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗。
・1931年:夫・廉三の英国・ロンドンへの転任に伴い同行、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。
・1945年:終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1947年にはG2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜は誕生した子供の育児指導をしている。
・1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。
・1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころ、後にモナコ王妃となるグレース・ケリーの知己を得る。
・1962年:ブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。
・1980年5月12日:スペインのマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
沢田美喜(さわだみき) (1901-1980) 78歳で死亡。 (一部抜粋しています)
三菱の総帥岩崎久弥の長女として生まれ、外交官夫人として海外生活中カトリックの信仰を得た沢田美喜は、昭和23年、占領軍の落とした混血児を収容する「エリザベス・サンダース・ホーム」を自力で大磯にひらいた。
以来2000人に及ぶ孤児を育てたのは、喜怒哀楽をむき出しに子供たちにたたきつけながら「私こそこの子らの母」といいきる彼女の情熱と、財産のすべてをそそいで――庭の石燈籠や庭石を売ってまで――悔いぬ彼女の意志力によるものであった。当時の日本に、これに匹敵する行為をした宗教人、宗教団体は、ほかに1つもなかった。皮肉好きの大宅壮一も、彼女ばかりは真の女傑である、と讃える。
その後美喜は30数回、北米南米に富んだが、すべてこの事業に関連した旅であって、プライベートな外国旅行ができるようになったのは、晩年の数回だけであった。
美喜は昭和55年晩春、グループ観光旅行に加わってスペインに出かけた。中年からの持病の高血圧と糖尿病が昂進して、出発前からテレビっを見ながらよく居眠りすることなどがあったが、この旅行で地中海のマヨルカ島についたとき、発病してホテルから動けなくなり、5月5日、パルマの小さな病院に入院した。
以下。小坂井澄『これはあなたの母』より要約。
――入院の翌日、激しい心臓発作を起こし、「あたし、死ぬの?」と漏らした。それでも8日午後、東京から長男の信一が到着したときには大分持ちなおし、信一の顔をみると、「あんた何しに来たの」と、いつもの調子で憎まれ口を叩いたほどであった。
たしかに、一時は、美喜の顔にも、危機を乗り切ったとの安堵感があらわれていた。
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しかし、10日ごろから、すたたび病状は悪化を見せた。11日、日曜の夜は寝苦しいとベッドの上で身を転転とした。
12日午前7時2分、美喜はこと切れた。苦しみの跡はなく、安らかな顔であった。

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