じじぃの「人の死にざま_540_石川・五」

石川五右衛門 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/950/
五右衛門 見得 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bnJ9BP0Vi1A&feature=related
河原の石川五右衛門/簪 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d0LRNHVNYbM&feature=related
石川五右衛門 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
石川五右衛門は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。
従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記などを史料として、同名の人物の実在が確定した。
【伝説の五右衛門】
出生地は伊賀国遠江国(現浜松市)・河内国丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子という説もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。
丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。
また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。

                                          • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
石川五右衛門(いしかわごえもん) (1558-1594) 36歳で死亡。 (一部抜粋しています)
『言継卿記(ときつぐきょうき)』文禄3年の項に、
「八月二十四日天晴、盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎(に)らる。同類十九人は八付(はりつけ)に懸(かか)る、三条橋間の川原にて成敗なり、貴賎群集也」
と、あり、また文禄3年来朝したイスパニアの商人アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』に、当時都に一団の盗賊群が跳梁(ちょうりょう)し、殺人強盗いたらざるなく、ついに捕えられ、三条河原で頭目及びその一族ことごとく油で煮られ、また磔(はりつけ)になったことが記されている。

                                          • -

石川五右衛門 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=3oR2Td-DN4fuvQPW1JHjBQ&ved=0CC4QsAQ&q=%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1