じじぃの「人の死にざま_497_牧野・富」

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牧野富太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
牧野 富太郎(まきの とみたろう、文久2年4月24日(1862年5月22日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
【生涯】
文久2年(1862年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれ、幼少のころから植物に興味を示していた。
10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。
22歳の時には東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で、共同で『植物学雑誌』を創刊した。その後、26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。今で言う植物図鑑のはしりである。それから牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表した。明治23年(1890年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中にみなれない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。
【その他エピソード】
・植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
・植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には牧野の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。
・牧野の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわるエピソードは数限りないが、今日、客観的な立場からみると、牧野を追い出した松村任三(狭量で官僚的な人間として悪者扱いされた)にも腹に据えかねる事があったのだろう。事実、牧野自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。しかし後年、松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞賛したのも他ならぬ牧野なのである。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
牧野富太郎 『植物随筆 我が思ひ出』 北隆館 植物の愛人、あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います 【執筆者】いしいしんじ (一部抜粋しています)
中学生の頃だったろうか「牧野」が人の名前だと知って驚いたのを覚えている。図書館でよく手に取った牧野植物図鑑の題の始めの牧野は、野山や草木といった普通名詞のように平然とそこにあり、書棚に何冊も並ぶ植物図鑑の、いってみればまくら詞のような語句として目で覚えていたからだ。
あとで知ったことだが、その誤解はさほど的はずれではなかった。「私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います」
牧野富太郎は写真のなかでいつもだいたい笑っているが、それは好きなものの隣で、好きなものと手を取り合い、いま踊り出さんばかりという感じの大きな笑みである。じっさいにキノコを両手に持って頬被りで踊っている写真もある。植物採集に出る際には必ず蝶ネクタイを結んでいったのは植物に会うためにそうしていたという。
『我が思ひ出』は95歳で亡くなる牧野が93歳頃に書きためた遺稿をまとめたものだがそれ自体もうからみあう森林だ。シデコブシの花被片、ヤマコンニャクの胎芽・・・・、かと思うと不意に、自分の健康法や牛肉が好きなこと、化石のことや、ツルの巻き方について触れていたりする。1項目ずつ読んでいくうちどこか暗く広い場所をゆっくりと旅している感じがしてくる。
牧野の文章は地下茎のように広がり、ところどころで触れあい、からみ、ひとつになって伸びていき、そして遠のき、それをくりかえす。葉の一枚一枚をいとおしみながら牧野は自分もそこに含めた全体を生きていた。人間自体、土から生え、光のほうへ生育し息をし、朱を落とし、少しずつ曲がり読も似どうと倒れ、そしてだんだんと薄らぎ見えなくなる。土に埋められた牧野富太郎の精は、われわれのいま見ている春の花や夏の緑に溶け、ほとばしり、踊りまわっているのではという夢想に駆られる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
牧野富太郎 (1862-1957) 95歳で死亡 (一部抜粋しています)
寺小屋で学んだだけの学歴で、東大教授らの忌避を受けつつ、日本最初の植物分類学者となり、自著『牧野日本植物図鑑』に「警告」と題し、
「著者ノ応諾ヲ経ズシテ本書ノ図ヲ縦(ホシイマ)マニ使用スルヲ許サヌ。・・・・」
と書いたほどの気力旺盛な牧野富太郎は、昭和24年、87歳のとき大腸カタルでついに死水をとる段となったが、その死水で息を吹きかえしたほど生命力も旺盛であった。そして昭和31年7月、94歳のときも腸炎で重態におちいったが、またも持ち直した。
元来彼は、精力絶倫で、ビール瓶のごとき大男根の持主でもあった。
しかしその彼も、31年の11月ごろから完全に食欲を失い、ブドウ糖の注射でわずかに生きながらえる状態になり、12月にはいると肺気腫を起した。
年を越えて昭和32年早々、天皇から見舞いのアイスクリームがとどけられた。かって何度か植物学講義のため宮中に召されたことがあり、そのとき感激と昂奮のため、帰宅すると発熱状態におちいったこともある牧野は、からだを起こせと手ぶりで示し、両手を合わせてアイスクリームをふしおがみ、小さじに1、2杯だけ食べた。
1月17日の朝から呼吸が乱れはじめ、手頸の脈搏がなくなり、5人の医師団の必死の手当もついにむなしく、18日の早朝絶命した。

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