じじぃの「人の死にざま_386_二宮・尊」

二宮尊徳 - あのひと検索 SPYSEE
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二宮金次郎 (唱歌) 動画 YouTube
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二宮尊徳 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
二宮尊徳は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。
【生涯】
生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である。現在の真岡市)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。下野国今市村(現在の栃木県日光市)報徳役所にて没。

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内村鑑三「代表的日本人」を読む』 童門冬二/著 PHP文庫 2010年発行
内村鑑三さんの描いた二宮尊徳 (一部抜粋しています)
−−二宮金次郎、別名尊徳(「徳を尊ぶ人」の意)は天明7年(1787)に生まれた。
−−父親は相模(さがみ)の国(現在の神奈川県)の名も無い村の貧しい農民だったが、深い慈悲と高い公徳心で知られていた(近隣の人は"ホトケさま"と呼んでいた)。
−−尊徳が16歳のとき、尊徳と2人の弟は孤児となった。親戚が集まって話し合った結果、家族は引き離され、年長の尊徳は父方の伯父の一人に養育されることになった。
−−少年はできるだけ伯父の重荷にならないようにと、一所懸命に働いた。大人の男にできることが自分にできないと言って嘆き、未熟なために日中にやり終えなかった仕事を深夜まで続けた。
−−そのころ尊徳は学問に関心を持ち、字の読めない人間にはなりたくないと考えた。
−−尊徳は孔子の『大学』の写しを手に入れ、仕事を終えたあと夜遅くまで勉強に没頭した。
−−ところが勉強しているところを伯父に見つかってしまった。伯父は自分にとってなんの得にもならない、そして尊徳にも実践的でない勉強のために貴重な油を使ったことをきびしく叱責(しっせき)した。尊徳は伯父が怒るのはもっともだと考え、自力で灯り用の油を手に入れられるようになるまで勉強をあきらめた。
−−翌春、尊徳はだれのものでもない河の堤防沿いのわずかな土地を開墾し、アブラナの種を蒔(ま)き、休日は自分の作物を育てるために費やした。1年がたち、かれは袋一杯の菜種(なたね)を手に入れた。尊徳はこの菜種を近所の油屋にもっていって油と交換した。
−−尊徳は勇んで夜の勉強を再開した。伯父から忍耐や勤勉をほめてもらえるのでは、と期待しないでもなかった。ところが伯父は、「養ってやっているのだから、おまえの時間はおれの時間でもあり、おまえのような者に一銭にもならない読書をさせる余裕などない」と言った。
−−尊徳はまたもや叔父の言うことは当然だと考え、命令に従って日中は田畑で重労働をこなし、その後は筵(むしろ)づくりや草鞋(わらじ)づくりに精を出した。
−−それ以来、尊徳は伯父の家で使う干し草や薪(たきぎ)を取りに山を往復する道々で勉強を続けた。
−−そのころ尊徳は、村の中で洪水(こうずい)によって沼地のようになってしまった場所を見つけた。
−−尊徳は沼地から水を取り除き、底を平らにならして、ささやかな田んぼに変えた。そこに農民ならふつう捨ててしまうような余った苗を植え、夏の間、丹念に手を入れた。その結果、秋には2俵分の黄金色した米が収穫できた。
−−この秋の収穫は、かれが波乱に富んだ人生を始めるうえでの財政的基盤になった。
−−尊徳は努力を惜しまぬ正直な人間に対して自然は必ず報いてくれることを学んだのだ。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
二宮尊徳 (1787-1856) 69歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「骨身をおしまず仕事をはげみ
 夜なべすまして手習い読書
 せわしい中にもたゆまず学ぶ
 手本は二宮金次郎」(文部省唱歌
小田原の貧農の家に生まれ、少年時父母を失った金次郎は、後年の銅像の通りに刻苦勉励してわが家を立て直し、ついで若党として奉公した小田原藩家老の家の経済を立て直した。彼の財政再建法は「仕法」と呼ばれて注目され、やがて小田原藩の仕法、さらには幕府の関東各地の天領の仕法を命じられるに至った。
彼は身長1.8メートル、84キロ、12文の足袋(たび)をはき、1日に80キロ歩くという体躯と体力の持ち主であったが、60歳前後、最後に幕府からの日光神領の荒地開拓の御用に骨身を砕いていたころから、過労のためか病気がちになった。しかし彼は「駕籠に乗っていては土がわかるものではない」といって、杖にすがりながら山野を歩いて任務を果たそうとした。
この功績によって、安政3年2月、幕府からはじめて御普請役という役人の地位を得、30俵3人扶持(ぶち)を受けることになった。そのころ彼は病床にあった。病名不明。
たんに大地の管財人であるのみならず、すでに独自の道徳哲学、尊徳倫理学を打ち樹(た)てていた彼は、しかしそういう報酬の多寡を問題にすることもなかったろう。
その年の10月20日、今市の居宅で多くの崇拝者に囲まれ、「葬るに文を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本植えれば足る」といって、午前10時ごろ瞑目した。

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