じじぃの「人の死にざま_338_古橋・廣之進」

中居正広VS芸能人50人! 世代別クイズバトル ジェネレーションチャンプ 170116 (3) 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x58ow8g_%E4%B8%AD%E5%B1%85%E6%AD%A3%E5%BA%83vs%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA50%E4%BA%BA-170116-3_fun
中居正広VS芸能人50人!世代別クイズバトル ジェネレーションチャンプ 2017年1月16日 テレビ朝日
【MC】中居正広
●国民1万人アンケートクイズ オリンピックメダリスト
子どもの頃に熱狂したオリンピック感動のメダリストといえば?というアンケートクイズが出された。
正解は、20代が、北島康介高橋尚子谷亮子荒川静香原田雅彦。30代が岩崎恭子谷亮子高橋尚子北島康介原田雅彦。40代がカール・ルイス山下泰裕森末慎二岩崎恭子鈴木大地。50代がナディア・コマネチ笠谷幸生山下泰裕森末慎二ミュンヘンの日本男子バレー。60代が東洋の魔女円谷幸吉アベベ・小野喬・古橋廣之進だった。
http://www.tv-asahi.co.jp/mininaru/backnumber/0192/
古橋廣之進 ウィキペディアWikipedia) より
古橋廣之進(ふるはしひろのしん、1928年9月16日-2009年8月2日)は日本の水泳選手であり、スポーツ指導者。
【人物】
1928年9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市西区)にて生まれる。日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科卒業。
第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った。
現役引退後は大同毛織に入社。その後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。
2009年8月2日に世界水泳選手権が開かれていたイタリア・ローマにて客死。
フジヤマのトビウオ
日本大学進学後に水泳を再開。この頃の想い出として古橋は「国民体育大会に出場するために東京から兵庫県宝塚市へ向かう途中で「汽車賃がないので、列車に無賃乗車して乗り継いでやっとのことで宝塚に行った」ことを語っていた。
1947年の日本選手権では400m自由形を4分38秒4で優勝し、公式記録にはならなかったものの当時の世界記録を上回るタイムを出した。
敗戦国の日本は1948年のロンドンオリンピックへの参加が認められなかった。日本水連は日本選手権をロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に開催し、古橋は400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回った。同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出しこれも世界記録を越えた。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため世界記録としては公認されなかった。敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に、世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローであった。
1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められ古橋や橋爪四郎ら6選手は8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立しアメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれた。この遠征はサンフランシスコ講和条約締結前だったこともあったこと、米ドルがなかったため日本水連幹部や在米日系人からの寄付で実現できた。渡航前にはGHQダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けた。戦後まもなかったこともあり大会前は米国民にジャップと呼ばれることもあったが大会後は一躍ヒーローとなりハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられた。
【作品】
栄光なき天才たち1巻-第二話』集英社1987年 (本文中に「取材協力=古橋廣之進」とある)

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こんな凄い奴がいた 長田渚左/著 ベースボール・マガジン社 2000年発行
最後に古橋廣之進 (一部抜粋しています)
彼が出した世界新記録の数を知った時、思わず頬をつねりたくなった。
にわかには信じ難く、真実とは思えなかった。活字の誤植か、或はデータミスか? いや、今を生きる私だけではない。当時の彼の記録をきいた世界中の人の感想も同じだった。
「日本の時計は狂っている」あるいは「プールそのものが短いのだろう」そう言って、一笑に付したのである。
だから実際に彼のスピードをカウントしたときの驚きは、ケタはずれだった。
極めるという域において、まさに彼は神業を体得していた。
しかしことオリンピックに関しては、まったく恵まれなかった。
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1948年・ロンドン五輪、世界中の目が戦後初の大会に集中した。一方、日本では開催日時にピタリ焦点を合わせ、水泳選手権大会が行われている。
当時日本はその五輪に出場したい意向をもっていたが、ロンドンから届いた返事は"プリンス オブ ウェールズ(日本が沈めた軍艦の名前)を我々は忘れない"だった。絶対的なNO。対日感情の凄まじさがのぞける。
そうか、分かった! と、水連はヒザを打って選手権の日時を決める。
やることがアッパレ、オシャレだった。
今も残る赤茶けた大会プログラムの冒頭には、
「もし、選手諸君の記録がロンドン五輪のそれより優れていれば、世界チャンピオンは五輪優勝者ではなく、この日本選手権優勝者なのです」と、書かれている。
そして結果は次の通りだった。
[1500メートル自由形] 19分18秒5 マクレーン(米)ロンドン → 18分37秒0 日本選手権
[400メートル自由形] 4分41秒0 スミス(米)ロンドン → 4分33秒3 日本選手権
スポーツの世界に、もし、たら、の存在はない。しかし彼がロンドンの同じプールで泳いでいたなら、彼は2種目とも世界新
1500メートルなら、約60メートルもの差をつけてゴールインしていた計算だ。
100分の1秒差を争うことを常識とする水泳において、ハナから信じられないと思う方も多いかもしれない。
驚くなかれ、彼はトータル33回もの世界新記録を出している。
サンジュー、サンカイ、口の中でころがすだけでも黄金のひびきを放つが、彼の人知れぬ自己開発は今考えても新しさに満ち溢れている。
まず、1日3回の練習の総トータルは2万メートル、つまり20キロを目標にしていた。
ヘーッ、それって多いの少ないの? とクビを傾けるむきもいるだろうが、日本人の体力からして1万メートルの練習が肉体の限度だと言われていた時代である。人の倍は水の中であえいでいた計算だ。
つまり、今は常識となったハードトレーニングを日本で始めて水泳に取り入れたことになる。
眠る、食べる、学校、トイレ以外はほとんどプールの中にいたそうだ。しかも彼のモットーがふるっている。"サカナになるまで泳ぐ"。
一見文学的な匂いさえ漂うフレーズだが、身体の外側に脂肪をつけ、丸みを帯びた流線型は、ブルブルと子猫のよおうに全身を震わせるだけで水滴は落ち、めちゃめちゃ熱心なトレーニングは、指と指の間に立派な水かきまでも誕生させた。
レーニングし過ぎで身体を壊すかもしれないと発想することはなかったのだろうかと尋ねると、昭和3年生まれの彼はたった一言、
≪筋肉って、あまり人が考えるような悧巧なものじゃないですよ≫
確かにその通りなのだ。いくら自分でがんばっていても筋肉は60パーセントしか開発されない。その上で、特別なマシーンを使う、コーチに叱咤激励されるなどのさまざまな方法で80パーセントまでは能力をやっとのことで出すという。なかなか横着なシロモノと最近では立証されている。
筋肉には筋肉の常識の存在があり、それを尊重することを彼は自然に悟っていたのだろう。
似たようなことをそれから40年を経た1988年ソウル五輪で言った男がいた。
金5、銀1、銅1のとてつもない結果を残した米国のマット・ビオンディである。
≪僕はイルカといっしょに泳ぐことが、一番泳ぎの参考になったんです≫
世界中の新聞記者が目を白黒した様子が今でも手にとるようだが。
自分がもし、サカナ、またはイルカなら、緊張感やプレッシャーなんてものは持ち合せる心配もない。
強いていえば、立派にカッコよく泳ぐことだけだ。鮮やかな発想の転換と合理性、だってサカナなら、泳ぐことは常識なのだから。
さて、もう一度、戦後に話を戻したい。言うまでもなく食べ物がさっぱりなかった時代。日本中が、闇の買い出しでなんとか食いつないでいた時代である。余分に泳ぐことなど、ある意味で時代錯誤とも言えた。
ある日、大学の先輩に呼ばれ、一度だけ彼は心臓をドキッ、とさせた。
先輩は真剣なまなざしで、気の毒そうにこういった。
≪どう考えても我々は1日わずか1000カロリーしか食っていない。おまえのトレーニングから察しておまえが一番先に、死ぬぞ≫
彼はヘエ? とびっくりし、一時は猫さえも食べようかと追いかけたという。
口に入れられる物はほとんどがイモ、カボチャだったというが、最近の栄養学では、スポーツ選手の食事に当分は欠くべからざるものとされる。
不幸中の幸い・・・・量は少なかったが、ある程度は理にかなっていたといえる。
さて彼の泳ぎそのものはどうだったか?
まさに変則、さしずめ野球なら、村田兆治野茂英雄以上のヘンテコリン泳法であったらしい。
≪フォームはヘンだっていいんですよ。美しい泳ぎが僕のテーマじゃない。人間の顔がみんなちがうように、無理がなければそれでいい≫
彼はそんな具合に自由な発想を披露していた。しかしその裏には、自分の泳ぎを作り上げなくてはならなかった暗い理由(わけ)があった。
じつは、昭和18年5月、彼は勤労動員の工場で回転ベルトに指を挟み、左手中指を第1関節から失うというアクシデントに見まわれていた。指を失うことも大変だが、親指と中指で水をひっかく水泳選手にとって、絶望的ハンディキャップを抱えた。
まず彼は右腕を徹底的に鍛え上げた。左手の水もれをカバーするためだった。右手のかきと足の蹴りでスピードを出し、左手はリズムをとるだけに添える程度にした。それまでの右オープンを左オープンにし、ゆえに足のビートも通常の6から4へ。
そして世界新を33回。
しかし中指を失っていたことは、誰にも話さなかった。だから彼自身が選手を引退するときに、自分でそれを口にするまで、誰ひとり知る者はいなかったそうだ。
コーチも仲間も、そして兄弟すらも。
いや、彼の努力によって、誰もう日がないなどと悟ることがなかったと言うべきかもしれない。
何というツッパリ、ハードボイルド人生。
彼の名は、古橋廣之進
工夫と熱意と意志、それは日本人の最も得意とするものです・・・・といった彼の言葉が今も耳を離れない。
誰だってサカナやイルカになろうとすればなれる。いや、きっと。

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