じじぃの「人の死にざま_319_JO・シュトラウス2世」

ヨハン・シュトラウス2世 - あのひと検索 SPYSEE
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美しく青きドナウ ヨハン・シュトラウス作曲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PKvKan0LxDo&feature=fvw
Wiener Blut (Walzer Music Musik) Johann Strauss (Viennese Waltz) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=f1d5Bv85sqM&feature=fvw
ヨハン・シュトラウス2世 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヨハン・シュトラウス2世オーストリアのウィーンで活躍した作曲家/指揮者/ヴァイオリニスト。遠祖はユダヤハンガリー人やロマの血が入っているという説もあるが、欧州人はさかのぼれば色々な民族に突き当たるのが当然であって、差別目的にせよ称揚目的にせよ、同時代や後年にこうした噂がことさら追求された形跡はない。ただ、黒く縮れた髪などに異国風の雰囲気を感じさせていたふしは若干ある。
ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟には、次男のヨーゼフ・シュトラウスと三男のエドゥアルト・シュトラウスがいる。生涯の多くを、ウィンナワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評される。また、ワルツの他オペレッタポルカなども作曲。毎年、元日に行われる「ウィーン・フィルニューイヤーコンサート」は、彼やシュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムを組まれる。音楽の都「ウィーン」の代表的な作曲家であり、その肖像はかつて、オーストリアの100シリング紙幣に描かれていた。

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『1冊でわかる クラシック音楽ガイド』 後藤真理子/著 成美堂 2007年出版
J・シュトラウス2世 (一部抜粋しています)
舞曲が舞踏のための伴奏音楽である以上、舞曲そのものの歴史は音楽と同じくらい古いといえる。ヨーロッパで舞踏が盛んであったのは「ダンスの世紀」といわれる16世紀で、アルマンドやクラントといった舞曲が多数作曲された。
4分の3拍子のワルツは、今日ではもっともポピュラーな舞曲であるが、舞曲そのものの歴史からみれば新しい部類に入る。生まれたのは18世紀末ごろのオーストラリアやドイツのバイエルン地方で、男女が抱き合って円を描きながら踊るスタイルが淫(みだ)らがましいとされて禁止されたり、下層階級の踊りとみなされた時代もあった。ワルツが宮廷でも踊られるようになったのは1814〜15年の「会議は踊る」と揶揄(やゆ)されたウィーン会議以降のことである。
ウィーン・ワルツはヨハン1世と、彼とともに楽団を結成したヨーゼフ・ランナーが様式を確立したもので、テンポは速く、いくつかの独立した小ワルツからなり、導入部とコーダがあるのが特徴。シュトラウス父子の書いた名曲の数々に代表されるように華やかさにあふれ、世界中に流行した。
ではウィーン・ワルツが人気を博したのはどういう時代であったか。ハプスブルグ帝国は1848年に16歳のフランツ・ヨーゼフを皇帝に迎え、67年にはオーストリアハンガリー二重帝国が成立。好景気に浮かれた人々が夜ごとシャンパン片手に舞踏会を開くバブルな日々であったのだ。
1873年にはウィーン万国博覧会が開かれ、ヨハン2世が指揮する「世界博覧会管弦楽団」がワルツ≪ウィーン気質≫を演奏して華を添えた。ところが万博が始まって1週間後、相場が暴落して金融恐怖が始まる。黄昏がくれば没落はほど近い。宴は終わり、人々はヨハン2世の音楽から見果てぬ夢の残滓(ざんし)を感じるようになっていく。ウィーン・ワルツはヨーロッパ中央部を長らく支配したハプスブルグ帝国の、栄光と没落の象徴ともいえるのである。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヨハン・シュトラウス2世 (1825-1899) 74歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ヨハン・シュトラウス2世は、少年時、父から音楽を禁じられて商工学校などにやられ、銀行員にされ、彼が音楽の道にはいったのは、その父が母と自分と4人の弟妹を捨てて愛人のもとへ走ったあとであった。
彼は父に捨てられることによって、その天才を解放されたのである。そして「美しき青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「皇帝円舞曲」をはじめ、ワルツの名曲を溢れるように生み出して「ワルツの王」と呼ばれるに至った。人柄のいい彼は、自分たちを捨てた父を許し、敬意を表して和解した。風姿にもすぐれた彼はウィーンの全女性の憧れのまとであった。
37歳のとき、10歳も年上の子連れの未亡人ジェッティと結婚してウィーンの市民を驚かせた彼は、しかし16年後、若い美貌の愛人を得て、妻ジェッティを自殺させるに至る。父の業(ごう)は一見温厚な彼の血の中に伝えられていたのである。しかしこの結婚は失敗し、若い妻は彼を老いぼれと罵って去り、58歳で、また子連れの、ただし莫大な持参金を持って来た未亡人アデレと結婚した。
1899年5月22日の聖霊降誕祭に彼は自作の「こうもり」序曲を指揮していて、ひどい悪感(おかん)をおぼえ、やっと演奏を終えると、馬車を走らせて自宅に帰った。帰宅したときは上衣からズボンまで汗にしめっているほどであった。
しかし、マッサージを受けてから気分は回復し、以後彼は「シンデレラ」作曲の仕事をすすめていった。
しかし、数日後、ある祝宴で、ファンにサイン中、熱い湯のようなものが背骨を這いのぼって来るのをおぼえ、彼は卒倒した。
医者が呼ばれて、彼の両肺は重い結核に冒(おか)されていることが発見された。
彼は高熱にうなされ、夜になると歌いつづけ、さけびつづけた。そして「シンデレラ」の楽譜を手さぐりで求めた。
6月3日、よく晴れた朝、彼は久々にすっきりした顔で、妻の手に接吻した。
「もう少しお休みになったらいかがです」
と、アデレがいうと、かれは微笑んで、
「どっちみち、そうなるだろう」
と、答えた。これが彼の最後の言葉となった。その日の午後4時15分に、彼はしずかに息をひきとった。
3日後、彼の自宅から中央墓地へゆく道は、ウィーン全市民のみならず、各国の人々で満たされた。沿道の家はすべて黒幕で覆われ、柩車の上の羽冠につけられた青白い灯は、夏の太陽の下でぶきみに燃えた。灯はあとからあとからつづいた。それは何とも形容出来ないふしぎな光景であった。

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