じじぃの「人の死にざま_917_JO・シュトラウス1世」

ヨハン・シュトラウス1世 - あのひと検索 SPYSEE
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ヨハン・シュトラウス1世ラデツキー行進曲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XegmVtsvMvs
Andre Rieu and The Johann Strauss Orchestra - Alte Kameraden 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IVwsDhNNLtw
ヨハン・シュトラウス1世 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヨハン・シュトラウス1世(Johann Straus I)はオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストである。ウィンナ・ワルツの基礎を築いたため、「ワルツの父」とも呼ばれる。遠祖はユダヤ系である。
系図
・長男:ヨハン(後に2世)
・次男:ヨーゼフ(ヨハンに続いて、作曲家となる。)
・三男:エドゥアルト(シュトラウス一家の三男。作曲家)

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849) 45歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ラデツキー行進曲」「マリアンカ・ポルカ」など作曲し、ワルツの父といわれるヨハン・シュトラウスは、ウィーンの宮廷舞踏会の指揮者であり、またヨーロッパ各地を演奏旅行して莫大な収入を得ながら、天性の経済観念欠如から一生金に追いまくられる生活をした。
もっとも彼は、同名の息子ヨハン以下5人の子供のいる本来の家庭のほかに、愛人との第2の家庭を持っていたせいもある。それどころか、40歳ごろから、彼は本妻とその子たちを捨てて、愛人のほうの家で暮らした。そして、こちらにも5人の子供が生まれた。
やがて、本妻の長男ヨハン・シュトラウス2世が成長して、父をしのぐワルツのライバルとなる。
1849年9月16日、彼はウンゲルのカジノでヴァイオリンをとって顎(あご)にあてたとき、右手の弓がまっぷたつに折れた。弓をとりかえたが演奏は悪く、やり直しをしている途中、彼は倒れた。
そのころ彼は、第2の家庭の幼い娘が猩紅熱(しょうこうねつ)を出して、寝るひまもなく看病に当たっていた一方、作曲のほうの仕事もあったので、疲労の極に達していたのである。
それから9日目の9月25日の午前2時ごろ、彼が死んだとき、第2夫人と子供たちはどこかへ姿を消していて、だれもみとる人間がいなかった。

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ヨハン・シュトラウス1世 Google 検索
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