じじぃの「人の死にざま_300_C・M・ウェーバー」

カール・マリア・フォン・ウェーバー - あのひと検索 SPYSEE
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Weber: Der Freischutz (NAWM 126), Wolf's Glen scene, beg 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FojsiGXZYDU&feature=related
C M von Weber Trio g moll op.63 - 1 mov 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=j6xfOIxBSdo
カール・マリア・フォン・ウェーバー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー(1786年11月18日-1826年6月5日)はドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト。名前は、一般には上記のドイツ読みとウェーバーという表記が混在して用いられている。
モーツァルトによるドイツオペラの伝統を継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてヴァーグナーへと流れを導いた作曲家として名高い。
わずか11歳で初めてのオペラを作曲し、『魔弾の射手』や『オベロン』などのオペラほか、『舞踏への勧誘』などの器楽曲も残す。また彼は、オーケストラの配置を現在に近い形に直したり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られる。
モーツァルトの妻コンスタンツェは父方の従姉にあたる。
【生涯】
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ヴァーグナーベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からヴェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。そのとき彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化、その年の6月5日にロンドンで客死した。その遺骨は、18年のちの1844年、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったヴァーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還した。

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『すべては音楽から生まれる』 茂木健一郎/著 PHP新書 2008年発行
臨界を超える音楽〜ウェーバー/歌劇≪魔弾の射手≫ (一部抜粋しています)
もう1つ、音楽にまつわる強烈な記憶を挙げよう。高校時代、オペラを上映したことがある。私の母校である東京学芸大学附属高校の学園祭「辛夷祭(こぶしさい)」は、オペラの上演が毎年の慣わしだった。
キャストばかりでなく演出なども生徒たちの手によるもので、春から準備を始める。秋の本番を迎えるまでのほぼ半年間、スコアの研究に始まり、かなりの時間を練習に費やした。この「辛夷祭」に向けての意気込みで、毎年皆が一丸となった。まだ高校生だから、オペラというものをよくわかっていない部分もあり、ずいぶんめちゃくちゃなこともやったが、最後はなんとか形になっていたと思う。
1年生の時は、フリードリッヒ・フォン・フロトー作の恋愛喜劇≪マルタ≫。3年生の時は、美しい間奏曲でも名高い、ピエトロ・マスカーニ作≪カヴァレリア・ルスティカーナ≫を上演した。
特に忘れられないのが、2年生の時の、カール・マリア・フォン・ウェーバー作≪魔弾の射手≫である。私は証明を担当した。ヒロインのアガーテ役の子は、卒業後は東京芸術大学声楽家へ進学したくらい、上手な歌い手だった。
本番で彼女が起こしたハプニングが衝撃的だった。最終幕、悪魔の奸計(かんけい)に陥った主人公が危機を脱し、恋人アガーテとの結婚を許されるハッピーエンド。フィナーレである<神をたたえよ>のコーラスで、即興的に、譜面より1オクターヴ上の音で「ハァーーツ」と歌い切ったのだ。
 心清く、罪なく生きる者は、
 父なる神の、情けを受けん!
会場は拍手喝采。ライトを当てていた私の全身にも、すさまじい震えが走った。意識的に生まれたもの。演出的な効果を狙ってのことではおそらくなかっただろう。感極まって思わず高い声が出てしまった、そんな鮮烈さと衝動が感じられた。あの日のあの瞬間、あの舞台、あの聴衆でなければ、決して起こり得なかったことなのだと思う。
第1幕、第2幕とクレシュンドするようになにかが高まり、そしてついに第3幕のフィナーレで臨界を超えた。溢れ出したなにかが、彼女にあの声を出させたのだろうか。
あの日の≪魔弾の射手≫は、上手下手でいえば、もちろん、プロにはかなわない。しかし、あの時私を震わせた音楽には、尋常ではない波動があった。すべてを一瞬にして見渡せるような高みへと向かう限りない上昇、とでもいおうか。存在の根幹を揺るがすような"神秘体験"といっても決しておおげさではない、音楽の生々しい体験だった。