じじぃの「人の死にざま_292_リチャード・ファインマン」

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Richard Feynman Intro 動画 YouTube
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Richard Feynman

リチャード・P・ファインマン ウィキペディアWikipedia) より
リチャード・P・ファインマン(1918年5月11日-1988年2月15日)は、アメリカ合衆国出身の物理学者である。
【概要】
経路積分や、素粒子の反応を図示化したファインマン・ダイアグラムの発案でも知られる。1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。
カリフォルニア工科大学時代の講義内容をもとにした、物理学の教科書『ファインマン物理学』は世界中で高い評価を受けた。また、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などユーモラスな逸話集も好評を博している。生涯を通して彼は抜群の人気を誇っていた。
【業績】
経路積分という新しい量子化の手法を考案した。経路積分を用いることで、水素に見られるエネルギー準位のずれであるラムシフトを簡単に説明できるようになり、この成果が、ノーベル物理学賞受賞につながった。
素粒子の反応を図示化したファインマン・ダイアグラムを考案した。これは素粒子論における複雑な計算を視覚的に理解する上で大変効果的であるが、その数学的基礎付けは未だなされていない。ファインマン自身はこれらの理論に対して懐疑的な態度をとっていた。
また、もともと量子力学におけるエネルギーの期待値を計算するために考案されたファインマン-カッツの公式などは、後に金融工学などの経済の分野にも応用されている。
【生涯】
・1918年5月11日 - ニューヨーク市のすぐかたわらの、ファーロッカウェイという小さな海辺の町のユダヤ人家庭に生まれる。父親はリチャード・フィリップス・ファインマンといい、制服のセールスマンであった。
・1965年 - 量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。
・1988年2月15日 - がんにより死去。

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『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
どうして気にするの? リチャード・ファインマン (一部抜粋しています)
好奇心旺盛
偉大な科学者はいずれも天才で、そして天才は風変わりな生活を送りがちだ。リチャード・ファインマンは、最も偉大な科学者の天才の一人であると同時に、風変わりな人々の中でも最も風変わりな人物だ。
ファインマンは人生の大半を学問の世界で送り、初めにコーネル大学で短期間務めたのち、残りの人生をカルテックカリフォルニア工科大学)で過ごした。しかし学者生活ばかりだったわけではなく、よく遊んでもいた。たとえば、ラスヴィガスへ行き、賭博師や詐欺師と交わり、美しい女性を誘ったりした。カルテックへ来るまでにはギャンブルもせず酒も飲まなかったが、魅力的な女性には夢中で、相手も乗り気になることが多かった。ファインマンは背が高く男前で、ダンスやドラムがうまく、聞き手を楽しませるような武勇伝にも事欠かなかった。ドラムの相棒ラルフ・レイトンがそうした話を聞き取っていて、いずれもベストセラーとなった『ご冗談でしょう、ファインマンさん』と『困ります、ファインマンさん』の中で紹介している。
3つの会議
1947年夏、ロングアイランドの東、カニのハサミのように延びる2つの半島の間に浮かぶシェルター島、そこに建つラムズ・ヘッド・インに、25人の物理学者が集結した。招待客だけが出席する会合で、招待に応じた物理学会の精鋭の中には、オッペンハイマー、ベーテ、ファインマン、ウイーラー、ウイリス・ラム、イシドール・ラビ、ジュリアン・シュウインガーが含まれていた。まさにアメリカ版ソルヴェイ会議だ。
ジュリアン・シュウインガーファインマンと同世代で、ファインマンと同じく電子と光子の相互作用の理論、量子電磁力学(QED)に熱心に取り組んでいた。家庭環境も、中流ユダヤ系、ニューヨーク出身とファインマンと似ていた。しかし、マンハッタンの富裕階級の中で育ったシュウインガーの生きる世界は、郊外のフアーロッカーウェー出身のファインマンとはかけ離れていた。シュウインガーの父親は、腕の立つ女性服デザイナーだった。10代のころのシュウインガーは、内気で早熟、物理学と数学に没頭した。ニューヨーク市立大学(CCNY)へ入学するころには、それ以外のことに対する関心をほとんど失っていた。授業には出ず、図書館で上級の物理学の本を読んでいた。最も影響をうけたのはデイラックの論文だった。
シュウインガーのCCNYでの道が揺らいだのは、兄のハロルドがコロンビア大学の大学院生ロイド・モッツに引き合わせたときだった。モッツは、シュウインガーが「ものすごく内気で内向的、親切で音楽好き」だと知った。数学と物理学の理解力は「誰よりも抜きんでていて、誰も派が立たなかった」。コロンビアの自分の指導官イシドール・ラビも感心するのではないか、そうモッツは思った。確かにそうだった。ラビが、量子力学の解釈に関するアインシュタインの論文で採り上げられている論点について説明したところ、シュウインガーに間違いを正されたのだった。
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ダイソンはこの「中道理論」を、1949年1月末に開かれたアメリ物理学会の大会で発表する。この理論はすぐに成功を収め、ダイソンは一躍有名人となった。「やあ博士、ようこそ」とファインマンは言った。
量子電磁力学をめぐる物語には、ファインマン、シュウインガー、ダイソンに加えてもう一人、4番目の主役がいた。朝永振一郎1906年東京生まれ、哲学教授の息子だ。子供のころは運動が苦手で病気がちだったため、家で実験をして遊んでいた。1913年に一家が京都へ引っ越し、朝永は一流の高校で良い成績を修める。同じ学校に通っていて親友だったのが、のちに核力の中間子理論で有名になる湯川秀樹だった。
1926年、朝永と湯川は京都大学に入学した。そして最終年度には、ハイゼンベルグ、デイラック、ジョルダン、シュレーデンガー、パウリの論文を読んで量子力学に没頭する。ハイゼンベルグやデイラックとは、1929年に東京で開かれた講演会で顔を合わせた。朝永が卒業したとき、日本は不況に突入していて就職口も限られていたが、幸いにも、日本物理学会のボーアとも称される仁科芳雄に目を掛けてもらえた。仁科は1921年から28年まで、ケンブリッジ、ゲッテンゲンコペンハーゲンハンブルグと、物理学者が集結するヨーロッパのおもな研究拠点で学び、帰国後は、東京にある理化学研究所理研)の研究室を主宰していた。そんな仁科に理研で自らが率いる研究室の終身助手として雇ってもらったのだった。この上ないチャンスだった。朝永はのちに次のように振り返っている。「当時の仁科研究室は、はつらつとしていた。メンバーはみな若く、リーダーの仁科も40代前半だった。毎日全員が集まっては、物理だけではなく、ビアパーティーや旅行の計画など、さまざまなことを熱心に話し合った」
1930年代、仁科や朝永を含む理研の理論グループは、量子電磁力学の発展をつぶさに追いかけていった。デイラックの本を英語から日本語へ翻訳するという「大変な作業」を引き受け、デイラックの理論を日本に紹介したりもした。1937年、朝永はライプツイヒへ渡り、ハイゼンベルクとともに2年間研究をする。しかし研究計画の先が見えず、苛立ちから落ち込む朝永だった。日記には次のように書いている。「自然はなぜもっと直截明瞭で素朴でないのだろうか」
仁科に励まされたや朝永は、1940年代前半、太平洋戦争が勃発して日本に戦線が迫るさなか理論研究を続けた。量子電磁力学に焦点を当て、デイラックの先を行って、電子の自己エネルギーとそこから導かれる厄介な無限大を解決しようとした。そして1943年に日本の学術雑誌(理論物理学の進歩)で、偉大な科学論文の選集には必ず採り上げられることとなる一連の論文を発表する。ダイソン曰く、「それらの論文には、ジュリアン・シュウインガーの理論の中心的アイデアが、手の込んだ数学を使わずに単純明快に示されていた」
1943年というのは、シュウインガーが自らの理論を発表する5年前で、ラムが重要な実験結果を発表する4年前にあたる。当時の日本は西洋から孤立していて、これらの論文も気づかれることはなかった。ようやく認められたのは戦後のことだった。家を壊され食べ物に困る朝永は、「頭を使わなくても済む作業」として、戦時中に書いた論文を英語へ翻訳することにした。しかし(ニューズウィーク)の科学欄でラムの実験に関する記事を読み、翻訳作業は単なる時間つぶしの作業でなくなる。以前におこなった研究の重要性を悟り、それを拡張して繰りこみを含める方法を見つけたのだった。1948年、戦時中と最近の研究の概要をオッペンハイマーへ送ると、電報で、「現状と今後の見通しの概要を書いてすぐに(フィジカルレヴュー)で発表しろ」とせき立てる返事がきた。
戦後3度目の招待会議が、1949年4月、ニューヨーク州ピークスキルにあるオールドストン・オン・ザ・ハドソンで開かれた。ここで盛んに議論されたのが、ファインマンの方法、およびダイソンによるファインマンとシュウインガー−−そして朝永−−の理論の統合だった。
この物語についてあと一言。1965年のノーベル物理学賞は、ファインマン、シュウインガー、朝永が受賞した。ダイソンは受賞しなかったが、多くの人がダイソンもノーベル賞に値すると考えた。ノーベル賞の受賞は3人までという規則の犠牲になったようだ。

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