じじぃの「人の生きざま_164_M・フェルトマン」

マルティヌス・フェルトマン - あのひと検索 SPYSEE
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Electromagnetism 6: Induction 動画 YouTube
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Quest for the Higgs 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Xcww72_6gCI
ノーベル物理学賞でたどる標準理論100年の歴史 2012年7月27日  KEK高エネルギー加速器研究機構
ヒッグス粒子の存在の確定が急務である標準理論は、人類がこれまでに100年かけて築きあげてきた理論です。その理論の要点をまとめると、次のようになります。
http://www.kek.jp/ja/NewsRoom/Highlights/20120727150000/
マルティヌス・フェルトマン ウィキペディアWikipedia)より
マルティヌス・フェルトマン(Martinus J.G. Veltman、1931年6月27日 - )オランダの物理学者である。1999年 電弱相互作用の量子構造の解明によりゲラルド・トフーフトとノーベル物理学賞を受賞した。
1960年代を通じ場の量子論の研究を行った。1971年ユトレヒト大学で大学院生だったトフーフトにヤン=ミルズ理論の繰り込みに関するテーマを与えて、この分野の長年の課題を解決して注目を集めた。その後、トフーフトと離れて、アメリカのミシガン大学へ移った。(科学読物『セカンド・クリエイション』ロバート・P・クリース他(早川書房))
1963-64 年の米SLAC国立加速器研究所滞在中にSchoonschip (オランダ語 で「きれいな船 (clean ship)」の意) という名前のソフトウェアを開発した。これは数学における方程式に対して記号的な操作を行うものであり、数式処理ソフトウェアとしては最初期のものであると考えられている。

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『現代素粒子物語』 中嶋彰/著、KEK協力 ブルーバックス 2012年発行
予言者、南部の物語 (一部抜粋しています)
パキスタンで生まれ英国の大学で場の理論を学んだサラムはインペリアル・カレッジ・ロンドンの教授に就任。電磁力とゲージ理論とのかかわりについて研究を深めたサラムは、1964年に代表作というべき論文を欧州の論文誌、フィジックス・レターズに発表した。
その論文にはかってグラショーが指摘したのと同様、弱い力を伝える粒子として3つの重たい粒子が現れていた。しかも、そのうちわけは中性粒子が1つ、電荷を備えたものが2つ、これらは現代風にいえばZ粒子とW+粒子、W-粒子、電磁気力を伝える質量ゼロの光子も論文には登場していた。
そして1967年、サラムもヒッグス場の理論に注目することとなる。ヒッグス場の理論は、ゲージ原理に縛られて質量がゼロとなってしまう粒子を肥え太らせてくれる魔法の理論。サラムはワインバーグと違う登山道を歩みながら結局、同じ場所へたどりついたのだった。
ここにいたってワインバーグやグラショー、サラムらがなすべきことは明らかだった。彼らの電弱理論を計算可能な理論とすることだ。
そのための手法も知られていた。日本の朝永振一郎や米国のリチャード・ファインマンらが考案し量子電磁気学で成功をおさめた「繰り込み」という数学的なテクニックだ。
量子論がからんだ理論では電子の質量や電荷の値が無限大(∞)になるという奇怪なことが起きる。だが、繰り込みを使うと計算の途上であちらこちらに現れた無限大が消え去ってくれるのだ。
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では電弱理論の構築という偉業のために最後の難関を突破したのは誰だったのか。それはオランダのユトレヒト大学の教授だったマルティヌス・フェルトマンと彼の弟子のヘーラルト・トホーフトだった。
ことの経緯はこうだ。フェルトマンワインバーグやサラムたちと同様、ヒッグスの営みに着目して電弱理論の計算に現れる無限大に立ち向かった研究者だ。だが彼の試みは徒労に終わった。
そこに彼は若い力を使ってみた。1970年の夏、賢そうな顔をした大学院生に課題を与えたのだ。繰り込みの手法を使ってうまく無限大を消してしまえ、というのである。学生の名はトホーフトといった。
フェルトマンはダメでもともとと思っていたのだろうか。それともトホーフトならやってくれる、と少なからず期待していたのだろうか。学生の大おじは位相差顕微鏡の発明でノーベル賞を受賞していたフリッツ・ゼルニケだった。
まもなく答えは出た。驚くなかれ、トホーフトはワインバーグやサラムらができなかったことをやってのけた。フェルトマンらは1971年夏に開催された欧州の物理学会で成果を発表。ニュースはたちどころに世界に伝わった。
こうしてついに電磁気力と弱い力を統合する電弱理論は完成。ワインバーグやグラショー、サラムの3人はその業績を称えられ1979年にノーベル賞を受賞した。彼らの理論はワインバーグ・サラム理論と呼ばれるようになった。
それだけではない。長らく時間がかかったがフェルトマンとトホーフトにもご褒美が与えられた。この師弟コンビもまた1999年にノーベル賞を獲得したのだ。受賞理由は「電弱相互作用の量子構造の解明」。電弱理論という1つの畑から2組ものノーベル賞受賞者が出たのは異例のことだった。

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