じじぃの「人の死にざま_236_南部・忠平」

南部忠平 - あのひと検索 SPYSEE
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札幌市文化資料室 - 南部忠平の巻
http://www.city.sapporo.jp/bunkashiryo/sodanshitsu/nambu.html
ロサンゼルスオリンピック (1932年)
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南部忠平 ウィキペディアWikipedia)より
南部忠平(1904年(明治37年)5月24日-1997年(平成9年)7月23日)は、日本の陸上競技選手。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。
【来歴】
北海道札幌市出身。札幌中心部の雑貨商の3男として生まれ、北海中学(現在の北海高等学校)時代から陸上選手としてならした。札幌の百貨店へいって階段でトレーニングを行ったりして、従業員にたたき出されたというエピソードが残っている。また冬場も雪の上を走ることで足腰を鍛えたほか、当時冬場は運休も多かった札幌市電の線路をレーンに見立てて練習したり(彼に「冬はハンディでしたね」と尋ねた笠谷幸生に対して「冬はね、札幌市がね、最高の走路を用意してくれたのさ」と語ったとのこと)、札幌駅の機関車のロッドや札幌競馬場の競走馬のスタートなどから走り方を研究していたという。
早稲田大学在学中の1928年(昭和3年)、アムステルダムオリンピックで陸上男子三段跳で4位に入賞。続く1932年(昭和7年)8月4日のロサンゼルスオリンピックの同種目では、優勝(金メダル)の快挙を成し遂げた。また、走幅跳でも銅メダルを獲得。ちなみにこの時の三段跳の優勝記録15m72cmは札幌円山競技場のセンターポールの高さの由来となっており、このポールは「南部ポール」と呼ばれている。

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こんな凄い奴がいた 長田渚左/著 ベースボール・マガジン社 2000年発行
ブレーメン三段跳び」 南部忠平 (一部抜粋しています)
南部忠平は1932年ロサンゼルス大会の"三段跳び"で15メートル72の世界新記録を出して金メダルを獲得した。彼自身の記した『紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗』(ベースボール・マガジン社刊)にはいろいろな動物が出てくる。
彼は煩雑に上野動物園に通い、跳躍のヒントを探していたのである。
絶妙といわれた跳躍力と助走スピードのバランスについてヒントを得たのは、猿だった。『紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗』から引用する。
−−ある日、猿が数頭集まって遊んでいるのを見ていたところ、寝ていた猿が他の猿におどかされて、突然飛び上がって逃げたが、このとき、猿の後ろ足の膝が深く折り曲げられているのに気づいた。ところがスピードを出して走りながら跳んだ猿の後ろ足は、静止の状態から急に跳んだ猿ほど深くは曲げられていない−−
そして助走路の走りに悩んだ彼は、札幌駅で機関車の動輪の動きを見続けていたことを『紺碧の空に〜』の中で告白している。
引用する。
−−走るときにはL字型にひじを曲げるが、その腕を前に出すときに力を入れた方がいいのか、後ろに引くときに力を入れた方がいいのか、機関車の動輪の動き方を見れば分かるかもしれないと思って、札幌駅に行った−−
また友達と海水浴に行ったとき、友人が"速いんだから、海に上を走ってみろや"と言い出し、彼は真剣にイメージ・トレーニングをしたらしい。
「片方の足が沈む前に、片方の足をつければいい」。このことは、大きな歩幅で高速回転をすればいいということのヒントになったそうだ。
中学時代100メートル11秒2で、歩幅は2メートルでピッチは50回転だった。ロスアンゼルス五輪近くになると、10秒5になり、2メートル37に伸びて47回転に上がっていたという。
1999年12月29日・NHK衛星放送でオン・エアされた「感動プレーバック・スポーツの20世紀・オリンピック」の中にはロスアンゼルス大会で出した世界新記録のジャンプが映っていた。
後に彼は、ジャンプの締めくくりはツルの着地を参考にしたと語っている。
37メートルの助走路を走るとき、彼は両腕を機関車のように振り、脚は海の上を渡るように回転させた。次に猿と化して宮中を飛び、着地はツルとなって2本の脚をふわりと折りたたんだと想像される。
機関車と猿とツルという異種3体を一身でひき受けたとき、彼は重力と最も折り合いのつく姿と化していったとうかがえる。
オリンピックで4回目までの跳躍は、15メートル22でしかなかった。しかし5回目の映像には、どこかそれまでの彼とは異なった様子が見てとれる。
ホップ・ステップ・ジャンプ。振り上げた2本の腕が翼のように空気をはらみ、落下しかかった彼の体を、さらに遠くへ運んでいったようにみえるのだ。
何と驚くことに5回目は、4回目までの記録を50センチも伸ばし、15メートル72としたのである。
「世界並びにオリンピック新記録」と高らかにアナウンスが響いたとき、織田幹雄は自らの世界新を14センチもぬり換えた親友のもとに、ころげるようにして走った。
「あのとき、ボクが"オイ、世界新だ"と言うと南部君は"ソオ"とだけ言いました。何というか歓びとも虚脱ともいえない、どう表現していいか分からない顔。余分な力の入っていない顔でした。僕たちはあのころ朝から晩まで、毎日のようにいっしょに過ごしていたが、あんな顔を見たのは初めてでしたよ」
実は、走り幅跳びでメダルを狙う南部は、三段跳びの練習などほとんどやっていない状態であったという。
三段跳びの日本人出場予定者は、織田、大島、南部と、当初3人だった。
ところが大島はオリンピック村で温湿布を替えようとガスに転嫁した際、大火傷を負ってしまった。三段跳びをおはこにしていた織田も調子を落として試合途中で棄権。気楽に出るつもりでいた南部に大きな期待がかけられた。
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名作・グリム童話ブレーメンの音楽隊>に登場するロバ、犬、猫、ニワトリが恐ろしいドロボウを追い払うというクライマックス・シーンがある。ロバの上に犬が乗り、その上に猫、ニワトリが乗ってひとつの怪物と化した姿が、声をはり上げ、自らの窮地を救う。それぞれは小さな力でも集結することで物語は思わぬ展開を見せる。
まるであのときのロバ、犬、猫、ニワトリが一体化したように、南部は飛翔したとはいえないだろうか。
機関車と化し、猿と化し、ツルとなった上に織田と大島の思いが乗っていたことは間違いないだろう。
15メートル72は、それほどとてつもない大記録だったのである。南部忠平は現役生活を退いた後毎日新聞運動部を経て京都産大、北海道短大教授、鳥取女子短大学長を務めた。
93歳、肺炎で亡くなるまで、明るくユーモアのある人柄で人々を魅了した。
そしてときにオリンピックの金メダルを振り返り「走り幅跳びならまだ分かるが、どうしてあんな記録(15メートル72)が出たのか」と、自問自答するようにつぶやくことがあったという。
真に迫る危機感を抱いたとき、南部は森羅万象を操ったが、15メートル72は93年の生涯においてただ1回のめぐり合わせであった。

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