じじぃの「人の死にざま_154_ゲーテ」

あの人に会いたい ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ SPYSEE
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Johann Wolfgang von Goethe 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=28Ua9h3IJYY
ファウスト フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』  (一部抜粋しています)
ファウスト』は、ドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作とされる長編の戯曲。全編を通して韻文で書かれている。『ファウスト』は二部構成で、第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1833年に発表された。
15世紀から16世紀頃のドイツに実在したと言われるドクトル・ファウストゥスの伝説を下敷きにして、ゲーテがほぼその一生をかけて完成した畢生の大作である。このファウスト博士は、錬金術占星術を使う黒魔術師であるという噂に包まれ、悪魔と契約して最後には魂を奪われ体を四散されたという奇怪な伝説、風聞がささやかれていた。ゲーテは子供の頃、旅回り一座の人形劇「ファウスト博士」を観たといい、若い頃からこの伝承に並々ならぬ興味を抱いていた。そうしてこうした様々なファウスト伝説に取材し、彼を主人公とする長大な戯曲を仕立て上げた(なお、主人公の名前は「幸福な、祝福された」を意味するラテン語のfaustusに由来する。ドイツ語で「拳骨、砲」を意味するFaustと一致するが、偶然の一致にすぎない)。
【日本語訳】
ファウスト』は明治時代、森林太郎森鴎外)によって初めて日本語に訳された。これは最初の翻訳であるにも拘らず、現在でも評価は高い。岩波文庫版では森林太郎の名のみでゲーテの名はなく、緑帯(現代日本文学)に分類されている。1928年初版である。文庫の赤帯(海外文学)で全2巻出されているのは、ドイツ文学者相良守峯訳である。鴎外訳は、ちくま文庫版「全集11」にもある。
【漫画】
ファウスト』には、手塚治虫による漫画版が存在する。この作品は1950年に不二書房にて、描き下ろし単行本で刊行された。手塚治虫は大の『ファウスト』フリークで、後に執筆した『百物語』や『ネオ・ファウスト』に、この作品の設定を絡ませている。

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『賢者たちの人生論 プラトンゲーテからアインシュタインまで』 金森誠也/著 PHP文庫 2009年発行
ゲーテ (一部抜粋しています)
フランス革命の熱狂的な動きは、宮廷につかえ保守的であったゲーテを嫌悪させた。これに反し、ナポレオンは軍事力によってヨーロッパを支配し、とくにドイツの各邦はその圧政に悩まされたにもかかわらず、ゲーテはナポレオンを混乱を正し秩序をもたらす英雄だという印象を受けた。それでも彼は、主君であるヴァイマールのカール・アウグスト公が、プロイセン軍に加担したことを理由に、ナポレオンからきびしく殊遇されることを怖れていた。
19世紀を代表する大詩人と世界的な帝王との会見は、1808年10月2日エルフルトのナポレオンの宿舎で行われた。時にゲーテは59歳、ナポレオンは39歳であった。そのおよそ20年後、ゲーテは秘書のエッカーマンにこの会見の思い出を語ったのだが、さすがに長い歳月がたっており、ナポレオンがセントヘレナ島で死亡した。1821年からすでに8年もたっていた。したがってゲーテも20年前ナポレオンと会ったときの恐怖と緊張を忘れ去り、まさに淡々として今は亡きナポレオンについては語ったわけだ。
ゲーテエッカーマンにこんなことをいっている。
「(人々がナポレオンに参っているように)俳優連中だって、いい役をつけてもらえると思いこめば、新しい舞台監督に好意を持つではないか・・・・だれも自分から進んで他人につかえる者はいない。しかしそうすることによって自分自身に奉仕することになると知れば、だれでも喜んでそうするのだ。ナポレオンは人間というものを知りすぎるくらい知っていた。そして人間のこの弱点を使うすべを心得ていた」
20年前のゲーテもそのようにナポレオンに魅された人物の1人であったろう。彼は全くおずおずとした態度でナポレオンに接した。ナポレオンは坐って朝食をとりながら、ゲーテに必見した。2人の間にかわされた会話は、ドイツの歴史家フォン・ミューラーやフランスの政治家タレイランなどが伝えている。まずナポレオンが「あなたはフランス文学で何を翻訳したのか」とたずねたので、ゲーテは「ヴォルテールの『マホメット』です」と答えた。するとナポレオンは「『マホメット』は愚作だ。そもそも世界征服者がおのれ自身についてあんな愚劣な告白をすることはありえない」と述べた。
2人の会話が白熱化したのは、ナポレオンが7回も繰り返し読んだといわれるゲーテの若き日の作品、『若きウェルテルの悩み』が話題になったときである。ナポレオンは、主人公のウェルテルがロッテへの恋がかなえられなかったことと、某国公使館書記という職務への不満がつのったことの2つが自殺の動機になったとしたことはおかしいとして次のようにのべた。
「あなたはなぜあのように書いたのだ。あれは不自然だ」
これに対しゲーテは、「作家が単純自然な方式では到達できないような効果を生み出すために、時には簡単には見破られないような工夫をすることも許されてしかるべきでしょう」と弁解した。
この他、ナポレオンはゲーテにパリに来て劇場を見物せよとか、ローマの英雄カエサルを主人公にした芝居を書けとかのべた。政治的な問題−−カール・アウグスト公の処遇−−については、ゲーテはさしたる成果をあげられなかったようだが、両者の文学討論は、かなり実のあるものであったようだ。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ゲーテ (1749-1832) 82歳で死亡。 (一部抜粋しています)
72になって、マリエンバードの17歳の娘ウルリーケに真剣に恋をしたゲーテだが。−−
鴎外の『ギヨォテ伝』にいう。
1832年3月にギヨォテは感冒して、16日に床に就いた。日記の最後の1行には『終日不快にて横臥』と書いてある。フォオゲルが療治して一旦起きたが、19日から20日に掛けての夜寒に病気が重くなって、22日午後11時30分に腕付けの椅子の左の隅に身を寄せかけたままで亡くなった。よめに『握手しよう』と云ったのと、家隷に『窓を1つ開けてくれ、明かりがもっと這入(はい)るように』と云ったのとが、最後の詞(ことば)である。『も少し明かりを』という象徴的の語は此(これ)にもとづいている。死に瀕した時、右の示指で空中に文字を書いた。これはWの字らしかった」
ギヨォテとはおれのことかとゲーテ言い。

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【次代への名言】3月22日・ゲーテ 2009.3.22
瞬間(とき)よ、とまれ! お前はかくも美しいゲーテファウスト』)
ドイツが誇る文豪、ゲーテは恋を忘れない人だった。初恋は14歳。いくつもの相愛と悲恋、1度の結婚と死別を経て、73歳の彼は17歳の少女に求婚する。
ゲーテは、自分の恋の軌跡を作品にとどめている。たとえば25歳で刊行し、独文学史に名高い「疾風怒濤(しっぷうどとう)時代」を切り開いた『若きウェルテルの悩み』。ゲーテと同じ誕生日の主人公と、彼が恋する「ロッテ」、その許婚(いいなずけ)(のち夫)との関係、そして「悩み」は、2年前の自身の経験がもとになっている。
ファウスト』もそうだ。ファウスト博士に誘惑され、妊娠し、捨てられたショックでわが子を水中に投じ、処刑される悲劇の女性の名は、初恋の人と同じ、グレートヒェンである。
ゲーテ1832年のきょう、没する。享年82。臨終のことばは「もっと光を」とされるが、実際は従者の名前だったとも、「お嬢さん、お嬢さん、お手を拝借」だったとも伝えられている。でも、最晩年に完成した『ファウスト』の終幕、天国でファウスト博士を迎えるグレートヒェンの次のことばが、この恋多き文豪の死に、最もふさわしいと思う。
≪愛した人が 濁りをすべて取り払った方が 私のもとに彼が 帰ってくる≫
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090322/acd0903220306000-n1.htm
ゲーテ Google 画像検索
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