ピエール=オーギュスト・ルノワール - あのひと検索 SPYSEE
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Pierre-Auguste Renoir 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lj6iHMYP4QE
迷宮美術館「緑と暮らした巨匠たち」 2009年10月29日 NHK
【司会】段田安則、住吉美紀 【出演者】玉村豊男、斉藤由貴、SHELLY
自然を愛した画家たちを特集。ルノワールやマティスが、緑を愛するがゆえに凝らした工夫とは? 「迷宮伝説」では、徹底して自然と芸術との共生を志したオーストリアの現代芸術家フンデルトヴァッサーを取り上げる。フンデルトヴァッサーの理想の家とは、いったいどこに作られたのか?
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20091029-21-20245
『すぐわかる画家別印象派絵画の見かた』 島田紀夫/監修 東京美術 2007年発行
印象派を生み出した画家とその周辺 (一部抜粋しています)
・ピエール=オーギュスト・ルノワール
幼いころから絵を描くことの好きだったルノワールは、エコール・デ・ボザールで学ぶ一方、スイス人画家シャルル・グレールの画塾に通った。その画塾で知り合ったのが、のちに印象派の画家として知られることになるモネやバジール、シスレーだった。彼らとともに画材を持って戸外へ出たルノワールは、自然のまばゆいばかりの光を画面に取り込むと同時に、モチーフの形態を表現しようと試みた。
19世紀なかばにはじまった大改造のおかげで、パリは明るく清潔な都市になった。さらに鉄道の開通に伴い、人びとの足はリゾート地に向かった。ルノワールは、このような同時代を生きる人びとに関心を持ち、都市の様子や郊外で余暇を楽しむ姿を作品にした。
画家として生活するルノワールにとって、自分の作品を購入してくれるパトロンの存在は重要だった。彼のパトロンとなったのは、19世紀になって台頭したブルジョア階級。彼らのためにルノワールは肖像画を制作した。可愛らしさを強調し、ときには大人びた様子をも見せる子どもたちの肖像画は、ルノワールの作品のなかでもとりわけ人気を博した。印象派時代の大胆な筆致で描かれたものであっても、顔の細部はていねいに仕上げられた。この時代、流行の先端を担ったのはブルジョアの女性たち。次々に新しいスタイルの高級仕立服が発表され、百貨店では季節を先取りした既製服が販売された。ルノワールが描いた女性たちは流行のファッションに身を包んでいる。画家は近代生活を描きとめたのだ。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ルノワール (1841-1919) 78歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1879年夏、38歳のときルノワールは、驟雨(しゅうう)のあと自転車で出かけて水たまりに転び、石の上に倒れて右腕を折った。そのときは彼は大したことではないと思っていたが、この接骨が彼の後半生を苦しめた難病のもととなった。
以来、その後遺症として起った変形リューマチは、間歇(かんけつ)的に烈しい発作を起したり、あるいは陰湿な痛みを持続させたりしながら、徐々に彼の右手を、さらに四肢を蝕んでいった。60歳のころには、彼は歩くのに2本の杖を必要としなければならなくなった。
1907年、ルノワールが66歳のころ、彼の胸像を作った彫刻家マイヨールはいう。「彼は口と呼べるようなものは持っていなかった。唇はダラリと垂れて、見るも無残なありさまだった」
彼は、カーニュの2.5ヘクタールという広大な土地のオリーブに囲まれたコレット荘と呼ばれる家で、毎朝。折りたたみ寝台に寝かされたまま2階のアトリエに運びあげられ、エア・マットをしいた椅子に坐らせてもらう。パレットを膝においてもらい、厚手の包帯で包まれた人差し指と親指の間に絵筆をさしはさんでもらう。そして描きはじめる。苦痛にゆがむ彼の手は、しかしカンヴァスの上に、寸分狂いのない豊麗な傑作を創り出してゆく。
ときどき戸外に運び出してもらうと、彼は「畜生、なんて美しいんだ! くそっ、なんてこの世は美しいんだ!」とさけんだ。ルノワールの眼には、女も、子供も、風景も、ひたすらに美しい、光と色彩にあふれた絵の対象であったのだ。
彼はありとあらゆる療法を試みたが、病気は徐々に悪化していった。1912年ごろ彼はリューマチの名医として有名な医者の治療を受けた後、ある日実験的に歩かされた。と、数年間まったく歩けなかったルノワールは、一歩、一歩、めざす椅子までたどりついた。みんな拍手したが、彼はいった。「ありがとう、先生、先生は超一流です。しかし私は歩くのはあきらめました。だって、歩くことにこんなに気力を使ってしまっては、もう絵を描く気力がなくなってしまいましからね。私は歩くことより、絵を描きたいのですよ!」
日本の梅原竜三郎が師事したのは、このころのルノワールである。
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1918年3月、77歳のルノワールを訪ねた画商ルネ・ジャンペルは書いている。
「眼の前にあるのはボロキレのような人間だった。彼は持ちあげられ、倒れないように両肩をささえられながら、肘掛椅子に移された。だが、彼の曲がったままの膝はのびなかった。彼の身体は、どこも直角であった。鉛の兵隊の中の落馬した騎兵のような、ひとかたまりの物体だった。
椅子に腰かけた姿も悲惨だった。一方の脚は包帯でグルグル巻きにされていたが、両腕もテープで巻かれ、その指は、羽根をむしられ縄でくくられ、焼き串で刺される寸前の鶏の脚みたいだった。
この人間のていをなさぬものが、私の言葉に答えることが出来るだろうか。まだ少しは意識が残っているのだろうか」
ジャンペルはおそるおそるありきたりの挨拶を口にした。ところがこの「人間のていをなさぬもの」に生命力が充ち満ちていることを知って彼は愕然とした。
実にルノワールは後半生リューマチに苦しみつつ、とくに最後の20年、時には手に絵筆をしばりつけてまでして、
「あまりにも描くよろこびにみちあふれた絵」を描きつづけたのである。
1919年12月2日も、ふだんと同じように静物画描き終え、料理女のルィーズが指の間から絵筆をぬきとってやった。前日ちょっと発熱したために呼ばれ、その日も念のために往診に来ていた医者が、狩猟で山しぎを2羽撃ちとめた話をするのを、彼は興味深げに聞いていた。
午前7時ごろ、彼は紙と鉛筆を求めた。が、それが与えられる前に、椅子で眠りにおちた。
8時ごろ、いきなり彼は、「パレットをよこしなさい。この2羽の山しぎは・・・・」といった。それはうわごとで、彼の眼は皿の上の幻の山しぎを見ているらしかった。「山しぎの位置を変えてくれ、早く、絵具を・・・・パレットを私によこしてくれ。・・・・」
深夜になって落ちつきはじめた。午前2時に、ルノワールはしずかに息をひきとった。
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ルノワールの言葉
「今まで一日も絵を描かずにいた日はなかったと思う」
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ルノワール展 国立新美術館(六本木) 2010年1月20日〜4月5日
http://renoir2010.com/
ルノワール Google 画像検索
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