じじぃの「人の死にざま_92_ディズニー」

ウォルト・ディズニー - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC/2021/
Walter Elias Disney 動画 Youtube
http://www.youlist.jp/v/49GFemzXdlM
TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【魔法の王国の支配者】ウォルト・ディズニー 【執筆者】ルチャード・シッケル (一部抜粋しています)
彼はミッキーマウスをこの世に送り出し、初の長編アニメ映画を製作した。またテーマパークを考案し、近代的なマルチメディア企業に作り上げた。よきにつけ悪しきにつけ、彼の打ちだした新機軸はわたしたちの世界と、それを体験する方法を変えてきた。しかしウォルト・ディズニーが作り出したもっとも重要なものは、彼の名前そのものである。
     ・
末息子のウォルトは、16歳の時、第一次大戦中の赤十字野戦病院部隊に入隊するために家を出たのだが、それ以前から、美術の授業だけが、父親と、人生の退屈から逃れられる時間だった。仕事の傍から彼は絵を描き続け、除隊になると、ミズーリ州カンザスシティーでコマーシャルの制作に携わるようになった。そこで彼が出会ったアニメーションは、まったく新しい分野であり、父親との悲しい運命から逃れる決心をした野心ある青年にtって、可能性は大きく広がっていた。
またアニメーションは彼にとって、面白くて、ストレスを感じることもなく、技術的な問題解決が優先されるメディアだった。とくによかったのは、アニメ作品の中は独自の小さな世界であって、現実の人生とは違って、ひとりの人間が完全にコントロールできるもので成り立っていることだった。「ディズニーは気に入らない俳優がいても、ただ破っちゃえばいいんだから」とアルフレッド・ヒチコックは後に、よくうらやましそうに語っていたものだ。
ディズニーは、スタジオに寝泊まりし、暖房を惜しんで缶詰の豆を温めずに食べて、成功物語にはつきものの厳しい時期に耐えた。ロサンゼルスに移り、賢く心の優しい兄ロイと組み、経営の面倒をみてもらうようになって初めて、ささやかな成功を納め始めた。ところが、彼に最初の商業的成功をもたらすはずだった作品、『ウサギのオズワルド』は彼のてから取り上げられてしまった。この事件をきっかけに彼は他人を支配する傾向を強めるようになった。それはまた、大ヒットとなるネズミ誕生のきっかけともなった。生意気で、とくにごく初期のころには残酷なまでにいたずら好きだったが、常に独創的な方法で問題を解決するミッキーマウスは、恐慌のどん底にいても喫しない快活なアメリカ魂のシンボルとなっていった。
ミッキーの最初の大成功は、ディズニーの高度な技術に負うところも大きい。なぜならディズニーが始めてマンガに添えた音楽と効果音のトラックは、制約の少ない独創的なアニメーションの特性と相まって、とくにトーキー映画の初期、実写版の映画にとって固定マイクロホンが足かせだった時代の観客を仰天させたからだ。
芸術的には、1930年代がディズニーにとって最高の時期だった。彼は音声を取り入れたように、ただちに「テクニカラー」を採用した。またディズニー本人は、動画製作者としては稚拙だったが、ギャグとストーリーづくりに関しては一流であることを証明した。時にスタッフと権限を分け合い、時に威張り散らすが、常に実際的なこのボスは、成長を続ける若くて情熱的なアーチストのチームを駆り立て、テクニックと表現をさらに洗練させていった。ディズニーは最初の長編映画『白雪姫』に、あらゆるリスクを冒して臨んだが、公開された彼の作品はたちまち受け入れられた。知識人や芸術家さえもがこの映画の中に、いわば本物の庶民性−−純真で感傷的で、かつ勇敢で生を肯定する感覚を見いだしていた。
しかし、彼らはディズニーを誤解していた。暗く才気あふれるピノキオ』と大いに意欲的な『ファンタジア』では、彼はテクニックを限界まで追求しようとした。しかしその後の映画は、印象的なアニメーションで鮮やかだったが、きわめて平凡でもあった。つまり、映画史研究家デービット・トムソンが言うように、「彼の描いた美しさは空虚でハートがない」のである。
ディズニーが求めていたのは、芸術的には写実主義、精神的には口あたりのよい伝統礼賛である。彼は、幼年時代、ディズニー家がミズーリ州の小さなマーセリンの郊外の農場に落ち着いていたころ、楽園のような生活を経験していたので、ほんのつかの間ではあったが、その時味わったような田舎暮らしの単純な完備さとその価値を祝福したいという気持ちがあり、それを作品に反映していたのだ。
     ・
当然ながら、彼はハリウッドの大物としては、最初にテレビを受け入れた。ディズニーがホストを務めた番組は10年以上続き、単に会社にとって利益を上げる中心的な部門になっただけでなく、あらゆる「作品」の宣伝手段として役立った。これらの「作品」に含まれたのは、実写版のたわいないコメディー、対象を執拗に擬人化した自然ドキュメンタリー、そしてもちろん、1950年代と1960年代に彼が熱中したディズニーランドである。
ディズニーランドは全財産を賭けたもうひとつのリスクだった。ディズニーがまるで取りつかれたように打ちこんだのは、最新の都市計画のもっとも優れた特徴を数多く先取りする遊園地のデザインと、風変りで時として危険な生き物・場所・空想の幻想を、客をおびえさせることなく再現できるような「イマジニアリング(構想の具現化)」である。
彼の目には、これらのアトラクションはどんな映画よりも優れたもののように映った−−立体的で、物語を製作する時のようなトラブルもなかった。実際に、ディズニーランドのアトラクションは現実の生活よりもよかったのである。なぜなら、アトラクションが提供する、偽りだがスリルあふれるひと時の経験は、けがれ、暴力、不幸がまったく排除され、すべてコントロールされた殺菌済みの環境だったからだ。それまで、ディズニーランド以外の彼のビジネスが作り出した製作物はすべて、物わかりの悪い現実の世界へ運び出されなければならなかった。ディズニーランドが1955年にオープンした時、事情は変わった。いまや彼が手にしたのは自分自身の小さな世界であり、人々は彼が決めたルールに従ってその世界を経験しなければならなかった。
ディズニーは65歳で癌に倒れる前に幸せを手にできたのだ、と言ってみてもおそらく差し支えないだろう。彼は、ついに、いつまでもいじくり回すことができる機械を考案した。少年は、かって追い出された穏やかな田舎町の生活をうらやんで、一国の長−−いや、絶対君主−−になり、皆に自分の理想を強要することができた。常に何かを駆り立てられていた、飢えていたかっての若き起業家は、思いもよらないと実、権力、尊敬を得た。晩年、何を一番誇りに思うかと尋ねられた時、彼が口にしたのはほほえんでいる子供たちでも、家族の重要さの宣伝でもなかった。「全部ひっくるめて」とぶっきらぼうに彼は答えた。「自分が組織を築き上げ、コントロールすることができたって事実だな」。このコメントはそのへんのおじさんの感傷には聞こえない−−おそらくスクルージおじさんは例外としても、そして彼のディズニー王国の建国は−−意図的になされたわけでもなく、十分な調査に基づくわけでもないが−−遠回しに、しかし確実に、わたしたちすべての生き方、考え方、そして夢を見る方法にまで影響を与え続けている。

                          • -

ウォルト・ディズニー Google 画像検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=wxnhSqzyJojVkAXitOTJAQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBAQsAQwAA
ウォルト・ディズニーの言葉
「ディズニーランドは永遠に完成しない」
「世界に想像力がある限り成長し続ける」