じじぃの「人の死にざま_81_後藤・新平」

後藤新平 - あのひと検索 SPYSEE
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李登輝 講演_(水沢公民館)_平成19年6月4日 (2007年) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=toMgmJ0OST8
後藤新平 ウィキペディアWikipedia)より
後藤新平は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。陸奥国胆沢郡塩釜村(水沢市を経て、現在の奥州市)出身。
関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。
【台湾における後藤新平
明治28年(1895年)4月1日、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の児玉源太郎の目にとまる。
明治31年(1898年)3月、台湾総督となった児玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは、社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。
関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画】
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため財界等からの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備をしたもの、後藤の独裁的な政策は地主・地権者の私有財産権を無視しており、今日でも厳しい批判をあびている。この復興事業は、パリの区画整理をモデルにしたものであり、既成市街地における都市改造事業として、後藤の独自の発想とは言えない。
【最後の言葉】
三島通陽の『スカウト十話』によれば、新平が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
後藤新平 生物的原理で動いた男 【執筆者】養老孟司 (一部抜粋しています)
後藤新平の全仕事」シリーズの一環として、藤原書店から鶴見祐輔の『<決定版>正伝 後藤新平』が刊行されている。後藤の女婿である著者が昭和12年に書いた作品の決定版だ。私が生まれた年の執筆だから、なんとも古い。古いのだが、引用された漢文調の書簡等はすべて口語訳が付されているから読みやすい。医者時代、衛生局長時代、台湾時代、満鉄時代、第二次桂内閣時代、寺内内閣時代、東京市長時代、「政治の倫理化」時代、の各時代、の各時代を八分冊としている。それぞれで後藤が成し遂げたこと、成し遂げられなかったことが書かれているが、ここでは、三巻の『台湾時代』を紹介しておく。
後藤は台湾総督府で民政局長として、「植民地統治」にあたった。総督の児玉源太郎が呼び寄せるのだが、結果としては適材適所。当時は人を見る目があった。「植民地主義」は戦後に罪悪として批判されるが、後藤の台湾統治は成功といわれることのほうが多い。その結果は台湾のひとに聞くしかないが。
治めるにあたり、後藤は統治の原則を「生物学的原理でやる」と断言した。では「生物学的原理でやる」とはなにか。現代社会はお金を中心に社会を考えるのが普通で、多くの人はそれで当然ととらえている。私はモノを基準にして考える。それは理系で医者だからなのか、それとも物質が欠乏していた時代の育ちのせいかは知らない。モノを基本としていくのは、自然科学の原則である。モノのあり方が状況を根底からまず決めてしまう。あれこれと方策を練るのは、それから先の話だ。まず、基本はモノである。後藤は医者だったから、それが当然だろう。水や石油といったモノに絡んで社会を考えた。同時に、自己の生命を衛ろうとするすべての生物に共通する生存本能、というべきものを前提としていた。「健全なる生命」の上に社会は成り立つと説いたのである。だから、具体的な統治にそれを反映すると、土地から人口までをまず徹底的に調査し、その結果を基に衛生から交通、法律に至るまで整備する。住民構成や現地の気候風土をも考慮に入れることになった。
日本女性の平均寿命が飛躍的に伸び始めたのはいつか。乱暴にいえば、後藤が水道水の塩素による消毒を始めたときだという。清潔な衛生環境こそが寿命を延ばした。予防は対処と異なり、評価されることは少ない。起こったことを処理する方が、事前に問題を防ぐよりも実感できるからだろう。モノを社会で見ると、意外なところに本質が出る。
再び後藤の言葉を読み返して思う。あまりにも当然なことを後藤は繰り返している。そして、その当然と思えることがいかに実現されていないかを確認する。明治のひとというのは同じ日本人か、百年たってこれほど変わるのか。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
後藤新平(ごとうしんぺい) (1857-1929) 72歳で死亡
明治15年板垣退助が岐阜で刺客に襲われて遭難したとき、25歳の愛知県立病院院長として駆けつけ、退助に「御本望でしょうな」といった後藤新平は、その後政治家となり、満鉄総裁、東京市長などを歴任し、その経綸(けいりん)の規模はすべて雄大なため「大風呂敷」といわれたが、晩年は少年団の事業に力を注いだ。
少年団が勢揃いして、
「ぼくらの好きな総長は
 白いおひげに鼻めがね
 団服つけて杖もって
 いつも元気でニーコニコ」
と、「後藤団長弥栄の歌」を歌うと、彼の鼻眼鏡の下は必ず涙でひかっていた。
大正15年2月、69歳のとき第1回の脳溢血の発作を起こしたが、すぐに回復して、以来、1年の間に政治倫理化運動としての演説を183回やった。しかし翌年8月に第2回の脳溢血を起こした。
しかも彼は12月から訪露旅行をし、帰国後、昭和4年4月4日、講演のために岡山にゆく途上、米原付近を列車が通過中、第3回の発作を起し、京都府立病院にかつぎこまれたが、4月13日に死亡した。

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後藤新平 | 近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html
後藤新平の言葉
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」は名言です。