じじぃの「人の死にざま_75_ベートーヴェン」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - あのひと検索 SPYSEE
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ベートーヴェン トルコ行進曲 Beethoven / Turkish March 動画 YouTube
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ベートーヴェン 第9交響曲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dsQ9CP_GlTQ
交響曲第9番 (ベートーヴェン) 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』(一部抜粋しています)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125(ドイツ語:Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。副題として合唱付きが付されることも多い。また日本では親しみを込めて第九(だいく)とも呼ばれる。第4楽章はシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、独唱および合唱を伴って演奏される。その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えたと同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作である。
第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されているほか、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌として制定、ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年にユネスコの『世界の記憶』(『世界記録遺産』とも)リストに登録された。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
ベートーヴェン (1770-1827) 57歳で死亡
ベートーヴェンは1796年耳を患(わずら)い、1800年ごろから急速に悪化し、1815年、45歳にして完全に聴覚を失った。
彼の晩年の作品は、同年代の人間にはまったく理解不可能で、20世紀の人間をも戸惑わせるものがある。ドビュッシーすらもいう。「ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第14番は、まちがいなく最初から最後まで悪ふざけ意外の何ものでもない」
彼は晩年も、長年にわたる自分の病気や家族についての心配、根拠のない貧乏に対する呪いをつぶやきつづけていた。
1826年秋ごろから腹水がたまりはじめ、12月20日に最初の腹水穿刺(せんし)が行われ、翌1827年2月17日に4回目の穿刺が行われた。
いちじは効果があったように見え、3月8日には出版社から送られてきたモーゼルワインを一息に飲んだが、すぐにその場で吐き出してしまわなければならなかった。
3月23日に、医者のヴァヴルッヒは、死の迫っていることを彼に告げた。彼の顔色は変わり、口をとじ、物思いに沈み、やがて周囲の友人たちにいった。
「友よ、拍手を−−喜劇は終りぬ!」
彼は自分を嘲笑したのであろうか。自分の偉大な人生を喜劇と判断したのであろうか。
24日に終鴛(しゅうえん)の聖晩餐会を受けたが、彼はひたいに汗をにじませて、うつらうつらと眠っているばかりだった。
3月26日の午後、ウィーンを春の雷雨が襲った。雷鳴がとどろいたとき、ベートーヴェンは半身を起し、おどすように右手をふりあげたが、やがて倒れた。息が絶えていた。
死後、彼は解剖された。その剖検記録。
「4肢は極度に痩せ衰え、黒い溢血(いっけつ)点が散在している。腹部は膨隆(ぼうりゅう)いちじるしく、腹水が多量に充満している。 肝臓実質は正常の約半分程度に委縮し、なめし皮のように硬く、青緑色を呈し、表面に凹凸(おうとつ)が存在し、実質にもソラ豆大の結節が散在している。 胆管内には結石ようの沈渣(ちんさ)を大量に認め、脾臓膵臓も正常よりもかなり大きく硬化している」
ベートーヴェンの死因は、アルコール嗜好による肝硬変と診断される。
生涯彼を悩ませた難聴の原因は、聴神経炎があげられているが、梅毒の疑いもある。
彼の葬式で、その棺をかついだ者の1人にシューベルトがいた。

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不滅の楽聖ベートーヴェン
http://www.beethovenmaster.com/
【次代への名言】12月22日・ベートーベン 2008.12.22 MSN産経ニュース
 ■「おお、人生はまことに美しい。だが、わたしにとっては、人生とは永久に迷いなのだ−」(ベートーベン)
 いまからちょうど200年前のきょう、オーストリア帝国の首都にあるアン・デア・ヴィーン(ウィーン)劇場で日本でもおなじみのベートーベンの交響曲第5番(『運命』)と第6番(『田園』)の初演が披露された。晴れの舞台にタクトをとったのはベートーベン自身。しかし、混乱の連続だった、という。
 その理由として「練習不足、楽団員との不和」があげられている。が、その7年前に自覚症状が顕著になった聴覚異常にいらだっていたことも大きかったのではないか。「完璧(かんぺき)な状態で私が持っていた一つの感覚の欠陥を人前にさらけだしにゆくことがどうしてできようか。−おお、そんなことは、私にはできない」。ベートーベンは、“遺書”のなかでこのころの苦悩を告白している。
 冒頭は『運命』の初演から2年後のことば(『ベートーヴェンの言葉』)だ。彼は迷う。しかし、そこから生まれた交響曲第7番は「忘我的な陽気さと熱狂、壮大な飛躍、巨大な爆発」(ロマン・ロラン)となり、生きることの喜びと自由を謳歌(おうか)する「第9」に向かう。いまが“旬”のこの不朽の名曲については年を越さないうちにもう一度、ある日本人に語ってもらおうと思う。