じじぃの「人の死にざま_74_メンデル」

グレゴール・ヨハン・メンデル - あのひと検索 SPYSEE
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G Mendel Rapish Video.wmv 動画 YouTube
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メンデルの遺伝法則
http://www.pteron-world.com/topics/history/mendel.html
メンデル Google 画像検索
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グレゴール・ヨハン・メンデル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
グレゴール・ヨハン・メンデルは、オーストリア・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
生物の起源の発見
フランス人パストゥールが、ビールやブドウ酒の発酵が微生物によってもたらされるものであることを明らかにし、生命の自然発生という考え方に終止符を打った。
パストゥールと同時代に、イギリスのチャールズ・ダーウィン(1809-1882)の進化論が、大きな衝撃を与えていた。彼の研究は、グレゴール・メンデルの遺伝に関する研究によって、さらに一歩深められることとなった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
メンデル (1822-1884) 62歳で死亡
メンデルは25歳のとき、当時オーストリア領であったチェコスロバキアモラヴィア修道院にはいり、そこで生涯を過ごした。しかし彼は司教の仕事よりも自然科学に興味を持ち、僧院の中で種々の動植物を飼育栽培して研究した。もっともこの地方は古来牧畜と農業の中心地で、それに益する研究はモラヴィア修道院でも重んじられていたのである。
ここでメンデルは、エンドウの交配試験をして、1865年43歳のとき、遺伝学上有名な「メンデルの法則」を発表した。
しかしこれは当時ほとんど他のが記者に知られず、埋もれたままになったが、彼は知人に「見ていてごらん、きっと私の説の正しさが知られる時が来るよ」といっていたといわれる。
1868年に彼は修道院長となった。それから間もなく、時の政府は僧院に特別な税金を課して来た。メンデルは院長として烈しくこれに抵抗し、やがて政府の弾圧に次第に屈してゆく他の教会関係者からも孤立するに至った。彼の晩年は遺伝学の研究どころではなく、ただこの税金闘争に費やされた。
彼は金髪で、明るい灰色の眼で金ぶちの眼鏡をかけ、背はあまり高くないが、ふとりぎみで、どっしりとして、袖のひろい司祭服にシルクハット、長靴で歩く姿には、だれもが好感をいだく気品があった。性格も明るく、友情に篤(あつ)かった。しかし上記の闘争と孤立の間、苦悩と失望の中に、次第に疑い深い人間嫌いの性質に変わっていった。
50を過ぎたころから彼は手紙に「私は万有引力に敏感すぎるほど体重が多くなり、もう植物採集にもいけません」と書くほど肥満した。その体重をへらすために、1日に葉巻を20本も吹かしたが追いつかなかった。
1883年の春ごろから、彼はいつも寝台に横たわり、公務もしたがらなくなった。足に水腫が出来て、たえず水液がにじみ出すので、毎日ベットの上で包帯をとりかえた。彼は腎臓炎と心臓病に冒されていたのである。
1884年1月6日の午前1時半、その包帯をとりかえに修道女が部屋にはいってみると、メンデルはソファに座ったままひとりで死んでいた。最後に彼は尿毒症にかかっていた。
彼の死後16年後の1900年、メンデルの法則は再評価され、その名は遺伝学上不滅の栄光をもって刻まれることとなった。

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メンデルの言葉
「見ていてごらん、きっと私の説の正しさが知られる時が来るよ」は名言です。