じじぃの「人の死にざま_66_棟方・志功」

棟方志功 - あのひと検索 SPYSEE
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あの人に会いたい 版画家 棟方志功 Re: Think different. 動画 YouTube
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
棟方志功 (1903-1975) 72歳で死亡
昭和49年夏、版画家棟方志功は妻のチヤとともに故郷の青森へゆき、郊外の三内霊園に自分たちの墓地を買い、墓碑銘を作った。「静眠碑」という志功独特の造字造語による墓碑銘であった。そのとき集まった旧知の人々に彼はいった。
「私がこの静眠碑に入ったら、ほかに何もなくてもいい。白い花一輪とベートーヴェンの第九でも聞かせて下さい。きみたちとも、また、すぐに会えるよ。魂で、きっと、なあ・・・・」
そしてネブタ祭に加わった志功は、豆絞りの鉢巻き、浴衣に赤い襷(たすき)、白足袋裸足の姿で、手に「名誉市民」と書かれた弓張提灯を持って踊りまくった。
志功はその5年前に、青森市民第一号に選ばれていた、群衆はその彼の姿に拍手した。彼は完全に「報いられた」芸術家となっていた。
帰京後も、彼は精力的に描き、旅をした。そして10月には、アメリカで個展をひらくために妻とともに飛んだ。この旅行中、カナダでの飛行機の中で、彼は気持ちが悪い、といって倒れ、応急処置を受けた。これが彼の死病の最初の兆候であった。
11月27日、ニューヨーク空港でまた倒れ、サンフランシスコ、ホノルルで休養しつつ、12月2日羽田に到着後、ただちに慈恵会医大病院で診察を受けた。肝臓に発生したガンはすでに転移しており、年を越すのは難しいかもしれない、という診断が下された。しかし将来頑健な彼は、よく生き通した。そして翌年の9月13日10時5分、チヤ夫人によれば、「線香花火の玉がポロリと落ちるように」息をひきとった。
11月、彼の遺骨は青森の墓地に埋葬され、青森市葬が行われ、ベートーヴェンの第九が奏でられ、小中学生らによるネブタ祭の舞踊が演じられた。

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【次代への名言】9月5日・棟方志功『板極道』 2009.9.5 MSN産経ニュース
日本が生む絵にもっとも大切な、この国のもの、日本の魂や、執念を、命がけのものをつかまねば、わたくしの仕業にならない棟方志功 『板極道(ばんごくどう)』)
 ≪わだばゴッホになる。(中略)ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。/ゴッホにはならずに。/世界の。/Munakata になつた(中略)そして近視の眼鏡をぎらつかせ。/彫る。/棟方志功を彫りつける≫
 志功は明治36(1903)年のきょう、青森で大きな産声を上げた。彼をめぐる風景とその歩みは、草野心平のこの詩が最も雄弁に語ってくれるだろう。
 冒頭は若き志功の決心だが、問題は芸術表現だった。と、そのとき、彼の心が「からだ全体をもやす焔(ほのお)」につつまれ、一つの答えがひらめいた。「ゴッホが発見し、高く評価して、讃美をおしまなかった日本の木版画があるではないか(中略)これこそ、現代の世界画壇に贈る日本画壇の一本の太い道だ」−
 志功にとって、板(版)画の神髄は技法ではなかった。「人の思いが丸ごと美しい線ともなり、点ともなる」(『板画道』)ことだった。でも、いざ制作をはじめると、≪アイシテモ、あいしきれない/オドロイテモ、おどろききれない/ヨロコンデモ、よろこびきれない/カナシンデモ、かなしみきれない/それが板画です≫−。「炎の人」が自らに課した道の高さ、険しさ、崇高さを思う。

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棟方志功の言葉
「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」

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